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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業24-松山市②-(令和5年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 二神島の造船業

 (1) 造船業

  ア 祖父が始めた造船業
 「私(Cさん)の父は二神島で造船業を営んでいました。造船所は戦前に祖父が始めたもので50年以上続いたのですが、木造船から鋼船やプラスチック製に変わる時期の昭和39年(1964年)に最後の大きな木造船を造りました。船の材質も変わりつつありましたし、そのころ瀬戸内海一円でマツ枯れが広がっていたので、マツ材が手に入りにくくなったこともあったのです。それからは漁船や小さな伝馬船を造ったり、船の修理を行ったりしていましたが、昭和50年(1975年)の少し前に完全に廃業しました。
 そのほかにも船を造るために製材をしていましたし、鍛冶屋的なこともしていました。船で使うくぎなどは主に広島県から船で運んできて、それを船の板に合わせて角度を調整する必要もあったので鍛冶作業をしていたのです。くぎを作ったり、たたいて直したり、大抵のことはできていました。
 二神島では漁業が盛んでしたので、昔から島内に2、3軒の漁船や農船を造る造船所がありましたが、大きな機帆船を造っていたのは私のところだけでした。大きな船は何のために造られていたかというと九州方面から京阪神に向けて石炭の需要があったころに、石炭を運ぶためのものでした。大げさかもしれませんが、日本の経済を支えていた船を造っていたということです。」
  イ 木造船を造る
 「造船所では多いときで1年間に3隻から4隻の船を造っていたのではないかと思います。造船所では船大工が船を造るわけですが、多いときは20人くらいの人が働いていたことを憶えています。船大工は二神島だけではなく津和地島や怒和島など他の島からも来ていました。作業内容によっては九州から来てくれていた人もいます。
 木造船は、マツなどで骨組みを作って、スギなどの板を張っていきます。隙間なく長い板を貼り合わせるためには高い技術が必要でした。そのため船大工たちはそれぞれが自分の道具を自分が使いやすいように加工していました。隙間なく板を貼った後、さらに水漏れしないようにマキの木の皮を水にさらして作った槇肌(まきはだ)を打ち込みます。板と板の間に打ち込んだ槇肌が水を吸うと膨らむので、水漏れを防いでくれます。そのうえで、粘土のようなパテというものを塗って、さらにペンキを塗って防水をしていました。さらに船主によって、このような造りにしてくれといったいろいろ条件があって、その要望に応えることも大変だったと聞いています。
 ペンキを塗るときには茶色の防虫剤を塗った後、防腐剤も塗っていました。海につかる喫水線の下はえび茶色や少し赤みがかった色のものを塗っていたと思います。白はペンキが安いからという話も聞いたことがありますが、船体は基本的には白が多かったです。そのころはスプレーガンなどもなく、はけで全部塗っていました。私(Cさん)も中学生くらいになると手伝いでペンキ塗りもしたことがありますが、大きな船になると大変で、防腐剤となる熱で溶かしたコールタールを塗ってからペンキを塗ります。そこまできちんとしたものではない足場を木で組んで、全部手で塗っていたので、コールタールは熱いし、大変な思いをしながらの作業でした。
 造船に加えて製材も行っていたので、船の材料となる板などは自分のところで加工していました。私も製材では小さいころからよく手伝いをしていたことを憶えています。製材のときには丸太をレールの上の台車に載せて、台車を走らせて帯鋸(おびのこ)という道具で切ります。帯鋸を回転させて、木を載せた台車を往復させて板に加工するのですが、その作業を手伝ったこともあります。帯鋸が途中で切れて飛んでくることや木の中に入っていた石に鋸が当たって火花が飛び散ることもありました。今考えると危険な作業をしていたと思いますが、手伝いをよくさせられて、その合間に魚を釣りに行ったりしていました。
 帯鋸は鋸を研ぐ目立てという作業をする専用の機械があり、その機械で研いでメンテナンスをしていましたが、働いていた船大工の人たちは自分で使う鋸に関しては自分たちでやすりを掛けて研いでいたことを憶えています。休み時間や仕事が始まる前に、研ぎ具合によって切れ味が悪くなったり、良くなったりするので自分が使い勝手の良いように研いでいたようです。戦後からしばらくのころは農家の子どもが大工修業をしたりして手に職をつける職業に就く人が多かったです。船大工もどこかで修業をした人もいましたが、自分なりに覚えて作業ができるようになったという人もいました。それで仕事を覚えて独立したりよそへ行って働いたりしていたようです。」
  ウ 造船に使う木材
 「木造船に使う木材は、船の骨の部分はマツで、その他の部分にはスギ板が多く使われます。エンジンを乗せる台には硬いためマツが使われたりもします。船主の要望で、場所によってはヒノキを使うこともありましたし、私のところで最後に造った船は、ケヤキを多く使った船でした。頑丈に造ってほしいという要望があったためケヤキを使ったので、高価なものとなり、父は赤字が出たと言っていました。そのケヤキを入手するために、久万(久万高原(くまこうげん)町)で一山買ってその木を全部使ったそうです。
 骨材に使われるマツは基本的に島の中のものを使っていましたが、船が大きくなるとそれだけでは不足するので、他の所から仕入れていました。島の外から持ってくる木材は船に載せられなかった場合には、船を使いロープで引っ張ってきます。今の時代は駄目なのかもしれませんが、当時は船でどんどん引っ張ってきていました。スギは宮崎の飫肥(おび)杉を指定して使っていました。造船用のスギは原木を購入し、弁甲材という5cmくらいの厚さのものに製材していました。弁甲材に加工されていたものも購入していたかもしれません。山口県柳井(やない)市に大畠というところがあって、そこに飫肥杉の販売や製材で有名な材木店があったので、そこからも購入していました。そのときには船で行って、そこから引っ張って帰っていました。また、今治(いまばり)市の波止浜に貯木場があってそこへ買いに行くこともありましたが、私(Cさん)も子どものころに三津浜から蒸気機関車で父と一緒に行ったことを憶えています。
 船に使うくぎなどの材料類は広島県の大崎上島にくぎを打つ鉄工所があったので、大崎上島の船で商売する人たちが瀬戸内海を行ったり来たりしながら注文とって、持ってきていました。槇肌も大崎上島の明石という集落が生産量のかなり多い地域だったので、そこから購入していたのだと思います。」
  エ 代金の集金
 「私(Cさん)が子どものころは商店でも付けで買うことができ、盆と正月の集金でした。造船所や製材でも全部付けでの購入です。父は毎日どこのをどのくらい板にした、柱にしたというものを全部記録していました。製材業で取り決めがあって、板にしたら柱にしたら幾らと額が決まっていたようです。お金は子どもが行った方がすぐに払ってくれていたので、私も盆と正月の集金に行っていました。気の利いた家だと『よう来たね、これあげるよ。』と菓子をくれたりもしていました。ところが父たちが行くと『おう、ちょっと上がれや。』ということになって、一杯飲んだらもう動かなくなって、集金どころではないので、もうそこで終わりです。島の中ではそこまで大きなお金が動いていないので子どもが行くのです。
 船の場合は大きなお金が動くので、別です。銀行振り込みがあったかどうかははっきりとは分からないのですが、父や祖父が集金には行っていました。愛媛県内だけではなく、広島県や長崎県の壱岐(いき)でも注文があったので、そういう所は取りに行く場合もあったようです。向こうがわざわざ現金を持ってきてくれるというのはそうはなかったと思います。それで案の定、父たちが行くと酒を飲まされてそのまま帰ってきたということがあり、私の祖母が受け取りに行ったこともあったそうです。私は祖母がよく『男は役に立たない。』と言っていたことを憶えています。祖母も酒が好きなので飲むのですが、気の強い人でしたから『私を馬鹿にしたらいけんよ、ちゃんとお金はもらわないけんのやけん。』ともらって帰っていました。お金のやりくりは大変だっただろうなとは思います。職人たちの給料も出さないといけませんし、家も抵当に入っていたので、銀行から借りたりすることもあったのではないかと思います。」
  オ 木造船の手入れ
 「木造船は基本的にはなかなか腐りませんが、船を洗うときは真水では駄目で、海水で洗います。だから船の掃除は簡単で、海の水を掛ければ良いわけです。それで上手に乗れば50年くらいは大丈夫だったと思います。
 木造船は、船の底に付着した貝殻の除去や、腐食や虫害を防ぐために、わらなどを燃やして船底をあぶる船熮(ふなたで)を定期的に行う必要があります。船熮のときには船を浜に上げて、わらや枯れたマツの木やスクズ(松葉)に火をつけて行っていました。私(Cさん)が子どものころは二神島でも米作りをしていたので、わらがあったのです。もちろんやりすぎると燃えるので、焦げない程度で行います。港の中にあった砂浜に上げるのも現在みたいなクレーンのような引き上げ設備もありませんから、潮が満ちているときに、船の底に棒を結び付けておいて、潮が引くと船がそれに乗るように潮の満ち引きを計算して行っていました。」
  カ 縁起を担ぐ
 「昔から航海には危険が伴うため船はいろいろ縁起を担ぎます。進水式のときも様々な船主の条件がありました。日取りも仏滅は避け、大安のような縁起の良い日を選び、船を降ろすときも潮が満ちてくるときを希望するなどなるべく縁起の良い条件で船を降ろしたいと船主が考えるため、日取りの決定が大変だったそうです。そうするとその日に合わせて船を完成させなければなりません。またこの進水式では餅まきをするので、島の人が拾いにやってくる島の大イベントとなり、とてもにぎやかな一日になったことを私(Cさん)は憶えています。
 それから船にはフナダマを操舵室や船の一番前に祀(まつ)りました。私のところでは家の形のような五角形の木をくりぬいて、中にサイコロと紙で作ったヒトガタを一対納めていました。フナダマは船の中心線上は避け、船首から見て右側に置きます。サイコロは、真ん中に切れ目を入れた二つのサイコロを重ねた形をしています。サイコロはヤナギの木で作りますが、その理由はヤナギがしなやかでなかなか折れないので、波にも風にも耐えるということを願うためでした。そしてサイコロは置き方にも決まりがありました。必ず、1を上に、6を下にしますが、これは安定を意味します。船の進行方向を艏(おもて)と言いますが、進行方向に3を、後ろが4になるように置きます。後ろのことを艫(とも)というので、これは「表見合わせ、共幸せ」という意味です。そのように置くと、フナダマは取り舵側にあるので、中心の方に2が外側の方に5が来ることになり、それは「中に荷あり、ご難除け」という意味です。それでサイコロを納めるときに『テンイチ、チロク、オモテミアワセ、トモシアワセ、ナカニニアリ、ゴナンヨケ』と唱えていました。また神職の持つ御幣は大抵は白い紙がついていますが、船の場合は赤い実の付いたナンテンの葉を使います。ナンテンというものは『難を転ずる』に通じるからで、このようにことごとく縁起を担ぐわけです。」
  キ 船の変化
 「小さな漁船でもプラスチック船が台頭してきて、急速に木造船の需要がなくなっていきました。木造船は重く、スピードが遅いのに対して、プラスチック船は船足が速いのです。ただ、プラスチック船は揺れに弱いので、一本釣りなどの漁を行う人には『木造船じゃないといかん。』と言われていました。木造船は長く乗ると木が水を含んで安定してくるので波が来ても揺れが少ないのです。一本釣りの漁師は釣っているときに揺れると当たりが分かりにくいので、安定した木造船が良いということでした。
 ただ、網漁などでは網を入れる時間をあらかじめ決めていたので船が一斉にスタートします。それで、少しでも船足の速い船で良い網代に行って早く網を落としたいということで船足の速いプラスチック船に急速に転換したのだと思います。
 一本釣り漁の人で長く木造船に乗っていた人もいたので、私(Cさん)の父も腐食を遅らせて、船の強度を高めるためにグラスファイバーを木造船に貼るという仕事を一時期していたこともありますが、材料の繊維が体に付着する大変な作業だったのですぐにやめました。
 当時、父は木造船一本だったこともあって、『木造船じゃないと船じゃない。』ということをよく言っていました。木造船は安定していますし、自分で修理することも可能です。例えば穴が開いたとしてもその部分を切り取って、その部分に同じような形の物を作ってはめ込んで、水漏れの防止をしてやれば直ります。ところがプラスチックやグラスファイバーは個人での加工が大変で、木造船は木造船でその良さがあったのだと思います。
 船そのものが急速に変化していった後、鉄鋼船を造るとしてもそれなりの設備が必要ですし、それで需要がどれだけあるかも分からないということで、造船業は廃業ということになりました。その後、製材もやめて最終的に父は船を買って漁業をしていました。笑い話ですが、あれだけ『木造船じゃないと船じゃない。』と言っていた父はプラスチック船を購入すると、『スピードが出るしこれは良い船だ。』と言っていました。」

 (2) 人々のくらし

  ア 盛んだった漁業
 「二神島には戦後の最も多いときに人口が1,000人くらいいたと聞きますが、昭和30年代の終わりころからの高度経済成長期に島から若者がどんどん出ていきました。国勢調査があったのでよく憶えていますが、昭和50年(1975年)に二神島の人口は579人でした。それから50年たって、今は10分の1の60人くらいになっており、高齢者がほとんどになっています。それで農業や漁業に従事している人も数人になっていますが、昭和40年代・50年代には島に活気があって、一番良いころだったのではないかと私(Cさん)は思います。
 魚もたくさんとれて、島にも活気がありました。漁で一番多かったのが、刺し網漁でした。5月から6月に掛けてはイカ漁があったり、カレイ網というカレイ専用の網があったりしたことも憶えています。タコつぼ漁も盛んで、数に制限のある許可制だったのですが10軒くらいはあったのではないかと思います。タコつぼ漁は主に二神島と由利島の間の海域で漁をしていましたが、公平になるよう毎年くじ引きでそれぞれのつぼを落とす場所を定めていました。
 二神島で漁業が盛んだった理由の一つとして、旧中島町の他の島に比べても漁場が広いことがあったのではないかと思います。二神島の他にも由利島がありますが、他にも三つの無人島があり、その海域が全部二神島の漁協に所属する漁場になるので、他の地域に比べても広いわけです。
 漁場が広かったというのも由利島が所属であるかどうかで変わってきます。由利島の海域がなくなったら漁場がかなり減ってしまうことになります。昭和30年代の終わりくらいまでは由利島の沖では由利島を基地としたイワシ網漁が盛んでした。イワシ網漁は魚がとれなくなったわけではなくて、操業するための人数が確保できなかった等の理由でだんだんと衰退したようです。
 私の家では船を造っていたので由利島には行っていないようですが、戦前には各家から一人を出して由利島に駐在をしていたそうです。網は漁業組合が持っていたものと、集落ごとに持っていたものがあったようで、由利島で引いたイワシ網は漁業組合が持っていた網で引いたのだろうと思います。この時代は二神島の住民イコール漁業組合員なので、結局自分たちの網を自分たちがやって、それを皆が平等に分けたと聞いています。」
  イ 島の農業
 「私(Cさん)が子どものころは二神島でも米は作っていましたが、小さな棚田で水の取れる入の浦や梅の浦といった谷筋の7か所くらいで作っていました。その他にも昔は麦や除虫菊を作っていたことを憶えています。春先になるとまず除虫菊があって、麦があって、そのあと田植えの季節がやってきました。麦は味噌(みそ)を作ったり、麦御飯にして食べたりするためのものです。私が子どものころは御飯の中にまだ麦が入っていました。それで米が終わると今度はサツマイモで、その間にふだん食べる野菜や豆類やジャガイモなどを作っていました。
 除虫菊は島全体で多く作っており、桜が咲いた後、島が花の色で白く染まってきれいでした。春の始まりは除虫菊からでした。花が咲くと収穫して千歯扱(せんばこ)きで花だけを落とします。それを袋に入れたものを業者が島に来て買っていました。
 集落は集中していますが、畑や水田は島中に広がっているので、農道ができるまでは船で島の反対側まで行っていました。そして山の上からはケーブルで海岸まで運んで船に積み込んで持って帰っていました。船で行くとなると、潮が満ちているときが効率的でした。潮が引いているときだと距離が伸びて運ぶのが大変になるからです。農道ができるまではそれも大変な作業でした。
 水田や畑は昭和40年代の初めには柑橘に変わっていきました。私が中島町役場に入った昭和47年(1972年)には水田は中島町全体でも一部に残っていただけで、二神島には全くありませんでした。由利島のイワシ網も昭和30年代の終わりころになくなりましたが、そのころはミカンを代わりに植えていった時期なのだと思います。
 造船所をやっていたころには農船といってミカンを運ぶ用の農業専用の船も造っていましたが、それも次第になくなりました。私のところでは製材も行っていましたから、木製ミカン箱の材料を作る機械があり、私も中学生のころにお金をもらって箱を組み立てていたことがあるのですが、プラスチック製のキャリー(ミカン採集コンテナ)に変わっていったので、木製のミカン箱の注文もゼロになりました。
 漁船は生間(いけま)(魚を入れて生かすところ)がありますが農船には必要なく、また操舵席も高くなく、箱を少しでも多く積めるようになるべく平らになるように造ります。農作物は水にぬれると良くなく、時化(しけ)たときには農作業を行わないので、そのような設計になっているのです。木造なので、農業専用の船を使わなくなったら、改造して漁船にという加工も容易でした。」
  ウ 島のくらし
   (ア) 島の商店
 「私(Cさん)が子どものころには二神島に店舗が4、5軒ありました。それよりも古い時代になりますが、造り酒屋があったこともあるそうです。卵などはニワトリを飼っている人がいたのでそこに買いに行っていましたが、豆腐屋もありましたし、塩やたばこは専売だったので、島に1軒ずつ売る店がありました。着物や帯のような和服を取り扱う店では、品数はそれほどなかったのですが、肌着なども取り扱っており、必要なら取り寄せてくれていました。また、食料品など何でも扱う雑貨屋のような店もありました。
 ときどき様々な業者が船でそれぞれの島に売りに来ていましたし、刃物研ぎをする人なども来ていました。現在のように買う人がわざわざ出向くのではなくて、直接向こうから来てくれる昔のシステムだったことを憶えています。三津浜などから服屋や布団屋も来て、島で『今日と明日販売しています。』と言って2日くらい滞在していました。私は福山(ふくやま)市(広島県)から来ていた行商の人のことを憶えていますが、他にもそれぞれ得意先があって、そこへ行って服を売って、次の注文を取って、帰って行くという行商の人がたくさんいました。注文をすると持ってきてくれていましたから、大きな町にわざわざ出向いて買い物をするということはほとんどありませんでした。
 渡海船の利用も結構ありました。島と三津浜とを直接往復していたので、定期船よりも渡海船の方が品物も早く島に届きます。定期船だと全部の島を回りますし、特に二神島は最後になりますから、品物を頼んでも夕方にしか来ないのですが、渡海船だと昼過ぎには手に入っていました。渡海船に頼めば何でも持ってきてくれていたので、渡海船専用の問屋もできており、そこに行けばほとんどの物をそろえてくれていました。
 そのため松山に行く機会は遠足や通院くらいでした。島には病院がなかったので、私も歯医者に行ったくらいです。島から出掛けるとなると一日仕事なので、今の生活スタイルを考えたら信じられないくらいですが、松山に行くとなるととにかく片付けられることを全部済ませようと、計画的に行っていたのです。
 病院は二神島にも戦前まではありましたし、戦後少しの間も戦争中に疎開してきた個人病院があったそうですが、昭和20年代の早いうちになくなったとのことです。ただ、島で開業医がいたとしてもしょっちゅう病気になるわけではなく、何かがあったら船で松山の病院に行くというくらいだったのだと思います。今みたいに調子が悪くなるとすぐに病院に行くということはなく、そのころはよほどのことがないと病院には行きませんでした。薬は富山から定期的に置き薬を持ってきてくれる人がいました。そのように行商が多かったので、旅館も島に2軒ありました。
 映画や芝居なども同様で、業者が定期的に島にやって来て、漁業組合の2階の大広間で上映していたことを憶えています。他にも鍋や鎌の修理をする人や、傘を直す傘張りの人が来てくれていました。現在は傘も使い捨てのような感覚ですが、部品も新しいものに交換してくれていたので、無駄のない生活をしていたのではないかと思います。その当時は島で待っていれば業者が全部来てくれるという生活をしていました。
 魚屋はないのか聞かれることもありますが、島には魚屋はなかったです。逆に魚屋って何だろうという感覚でした。夕方船が港に帰ってくると『おおい、これ食べるか。』と言われて、商品にならない魚をもらっていました。今の人に話しても理解できないかもしれませんが、魚屋が必要ないわけです。中島には大きい農家もあるので魚屋の商売が成立するのでしょうが、二神島では魚は買うものではなかったのです。
飲み屋もなくて、それぞれの家で酒を飲んでいたのだろうと思います。もちろん酒屋はあり、その他にも漁業組合で酒を販売していました。たばこ屋も1軒あり、おばあさんがたばこの販売をしていたことを憶えています。その人は島の人がそれぞれどのたばこを吸うかということが頭に入っていたはずです。あるとき子どもが来て、このたばこをと言ったら、『ちょっと待って、あなたのお父さんはこのタバコは吸わんやろ。自分が吸うために来たんじゃないか。』となったので、そしたら『隣のおいちゃんに頼まれた。』と答えると、『その人もこのたばこじゃない。』と言われたということがあったそうです。」
   (イ) 近かった広島
 「私(Cさん)の家では取引銀行は愛媛の銀行ではなく、広島銀行でした。当時は広島を出港して呉を経由して、中島の島を全て回って三津浜まで行くという航路があったので広島の方が便利だったのかもしれません。
 電波の関係でテレビも私たちが小さいときにはNHKも広島放送局で、松山放送局は映りませんでした。天気予報も広島が最初で、愛媛は最後でした。子どものころは広島県知事や広島市長の名前は分かるけれど、愛媛県知事や松山市長の名前は分かりませんでした。もちろん大人は知っていましたが、私の祖母は県知事選挙で『殿様』と書いたと言っていました。きちんと有効投票になったのでしょうか。」
   (ウ) 中学校
 「中学校は二神中学校でしたが、私(Cさん)たちが最後の卒業生です。私たちの一つ下の学年は二神島の校舎にはいたのですが、中島中学校二神分教場となっていました。その一つ下の学年からは中島寄宿舎に入るということになりました。それでも私たちのころは二神中学校だけで60人くらいいました。津和地島では一足早く中島中学校と合併しましたが、中島には行かないという家庭では津和地中学校に通わせたので、中島中学校の先生が津和地中学校に行って授業をしていた時期もあったと聞いています。それでも最終的には昭和40年代の半ばに野忽那中学校と二神中学校と津和地中学校が統合して、中島中学校になりましたが、その当時中島中学校の生徒は500人を超えていたのではないかと思います。寄宿舎生もかなりいて、3階か4階建ての大きな宿舎でした。私たちは二神中学校の最後の卒業生で、成人式の写真も私たちのときまで白黒写真でしたし、ちょうど端境期だったことを憶えています。」


参考文献
・ 中島町『中島町誌』1968
・ 愛媛県『愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)』1984
・ 角川書店『角川日本地名大辞典38愛媛県』1991
・ 神奈川大学日本常民文化研究所『二神島 豊田造船所 資料集』2018
・ 山内譲『海の領主忽那氏の中世』2022