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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業24-松山市②-(令和5年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

第2節 興居島の農業と人々のくらし

 興居島は高浜港から海上約2㎞に位置し、西と南は伊予灘に面し、北は釣島海峡を挟んで野忽那島が位置している。島の形は南北に長く、東側の由良湾に面した海岸の北に由良港、南に泊港があって、それぞれ高浜港との間にフェリー航路が就航している。泊港の西には標高282mの小富士があって「伊予の小富士」として知られている。興居島は明治22年(1889年)の市制・町村制施行によって島全域が興居島(ごごしま)村として成立し、戦後、昭和29年(1954年)に松山(まつやま)市に編入された。興居島と陸地部の松山市との交通は高浜港と三津浜港が窓口となっていたが、両港とも鉄道の駅が近くにあり、松山市中心部からの移動も容易であったため、島であっても不便なく人と物が行き来していた。昭和30年代まで渡海船による物流が盛んであったため、三津浜港と三津浜商店街との密接なつながりが存在した。
 島の主要産業は漁業と農業であったが、漁業は次第に廃れて現在に至っている。農業は、平地が少なく海に面した斜面地の多い地形を生かして果樹栽培が盛んに行われてきた。特に昭和30年代のミカンブームに乗って出荷された興居島ミカンは、愛媛県産温州ミカンの中でも全国にその名が知られた柑橘(かんきつ)であった。昭和40年代以降、温州ミカンの価格不安定化によって宮内イヨカンの栽培が推奨され、その適作地として多くの宮内イヨカンが出荷された。平成に入ってからは、徐々に新品種への移行が進められ、現在は多品種の柑橘を栽培している。
 本節では、興居島の果樹栽培を中心とした農業と島内のくらしについて、Aさん(昭和11年生まれ)、Bさん(昭和19年生まれ)、Cさん(昭和19年生まれ)、Dさん(昭和21年生まれ)、Eさん(昭和22年生まれ)から、それぞれ話を聞いた。