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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業24-松山市②-(令和5年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 興居島の農業

(1) 興居島の果樹栽培

ア ビワ栽培
  (ア)ビワ栽培の隆盛
 「私(Aさん)が若いころ、興居島はモモやビワの産地で、多く作られていました。それに付け加えるように柑橘が栽培されていて、当時は宮内イヨカンの元になった晩生(おくて)イヨカンが作られていました。収穫物は渡海船によって三津浜港に運ばれ、港の近くの市場(現そごうマート中須賀店)に運ばれていました。海岸沿いの道路が整備されていないころでしたから、ふだんから伝馬船が主な交通手段として使われていた時代です。渡海船は伝馬船よりも大きな船で、収穫物の出荷は個々の農家でやっていました。渡海船を運航していたところは後に陸運業に変わっていきましたが、当時は各町に渡海船を運航するところがありました。三津浜の市場で思うような値段が付かない場合もありますので、呉(くれ)市(広島県)にも出荷していました。スイカ船と呼ばれるくらいスイカを出荷することもありました。」
 「戦前から戦後にかけて、興居島ではビワ栽培が盛んに行われていました。モモやミカンも作られていてこちらは三津浜に出荷していましたが、ビワは広島県に出荷していました。広島県から『ビワ船』と呼んでいた貨物船が興居島沖に停泊して、農家がビワを出荷していました。出荷されたビワは広島県に陸揚げされた後、国鉄を使って東京や北海道まで運ばれていました。
ビワの収穫は短期間で終える必要があったので、近隣の睦月島や野忽那島をはじめ、当時の中(なか)山(やま)町や内(うち)子(こ)町から人を雇って収穫していました。収穫時の食事は、ふだんの3食と午後3時の1食を加えた合計4食が出されていたことを私(Cさん)は憶えています。
 同じころ興居島はモモの産地としても有名でした。モモの花が咲く4月ころは、対岸の高浜地区から興居島を見ると桜よりも色の濃いピンク色の花が島のあちこちに見ることができて、『興居島は桃島』などと言われていました。」
 「広島県からの貨物船は興居島の港に接岸できなかったのですが、当時はどこの家も和船を所有していましたので、その船に収穫したビワを載せて貨物船まで運んでいました。ビワの収穫時期は5月から6月になりますが、どこの家でも人を雇って収穫を行っていました。雇われた人は内子町や唐川(伊(い)予(よ)市)の人が来ていました。興居島での収穫を終えると、働き手は同じくビワの産地である唐川に行って収穫に従事していました。
 収穫したビワは段ボールではなく竹籠(かご)に入れられ、籠の中に『パッキン』と呼んでいた薄い板できれいに仕切りをして、丁寧にビワを詰めて和船に載せていました。出荷の規格に合わなかったビワはトロ箱に詰めて、こちらは渡海船に載せて三津浜に運んでいました。三津浜にあった工場でビワの缶詰が作られていました。このような光景は昭和30年代まで見られていたと思います。高度経済成長が始まって世の中が好景気に沸いていた時期であり、ビワの値段も大変良かったことを私(Dさん)は憶えています。」
(イ)海運から陸運へ
 「渡海船による海上運輸を生業としている家は興居島の各地区に数軒ありました。当時は、段ボールではなく竹で編んだ籠に果物を入れて運んでいました。後に高浜港と興居島を行き来する航路でフェリーが導入されると、輸送方法は陸上運輸に変わり、段ボールが使われるようになりましたが、現在のような10kg詰め段ボールではなく15kg詰めの段ボールにミカンなどを入れていました。陸上運輸に変わると島内の渡海船の業者は陸運会社に形態を変えて合併を重ね、現在は興居島にある運輸業者は2軒となっています。私(Eさん)の家は渡海船を運航していましたが、陸上運輸へ移ったときによその渡海船運航会社と合併して、現在は陸上運輸を行っています。
 渡海船は農産物の輸送を担っていて、人の輸送は基本的に行っていませんでしたが、ついでに、という理由で乗せることもありました。三津浜からの帰りに、島の店からの要望で品物を仕入れてくることはありましたが、個々の人から物を頼まれることはほとんどなかったと思います。」
(ウ)下火となったビワ栽培
 「モモやビワが盛んに作られていたのが昭和30年代まででしたので、昭和40年代以降はミカン栽培が中心となっていったことを私(Dさん)は憶えています。栽培品目が変化した背景にミカンブームが到来したことが挙げられますが、ビワやモモには連作障害があって長期間の栽培が可能でなかったのに対し、ミカンにはそれがなかったので栽培を続けることができたことも理由の一つに挙げられます。」
 「昭和30年代にミカンブームが起きると、島内のモモ畑やビワ畑、さらに水田はミカン畑に変わっていきました。モモは初めのうちは大きな実が付くのですが、時間がたつと枝が劣化して折れやすくなって実が付きません。新しい苗木に植え替えた場合、数年は実が付かないのでその間の収入がなくなってしまいます。そのような理由があってビワ栽培より前に衰退したことを私(Aさん)は憶えています。また、ビワやモモは袋掛けの作業が必要で、ビワの木は背が大変高いために梯(はし)子(ご)を掛けて登らないといけませんが、1本の梯子では高さが足りないのでそこから縄梯子を掛けたり、1本の木に何本も梯子を掛けたりします。私が若いころは袋掛けする実の数が何万とありましたので、作業が大変ですし危険を伴っていました。」
イ 興居島ミカン
 「私(Aさん)は興居島の由良地区に隣接する門田地区で農業を続けてきました。由良地区を中心とする興居島北部では戦前からミカンの木が植わっていたのですが、戦中と終戦直後の食糧難の時期に伐採せざるを得ませんでした。そのうえでイモや麦を栽培していたのですが、冬になると沖に出て海藻のホンダワラを採り、それを陸で干して肥料にしていました。当時は肥料がなかなか買えなかったころですから、藻切りざおを持って海に出ていました。干した海藻を畑の上にまいたり、イモ畑なら土の中に埋めたりしていました。当時、大きな農家なら大抵は伝馬船を所有していましたし、船さえあれば簡単に採ることができていました。
 昭和20年代後半に入り食糧難が一段落すると、今度は果樹の需要が高まってきました。このため再びミカン栽培に着手したのですが、苗木を植えるところから始めないといけませんから、ミカン栽培が軌道に乗るまでに約10年は掛かり、その間収入がないために大変苦労したことを憶えています。」
 「私(Bさん)の祖父から聞いた話ですが、戦時中や終戦直後は食糧難の時代だったため、行政の指導によって果樹を伐採してイモや麦を作っていたそうです。このため、昭和20年代は果樹による収入が得られなかったそうです。」
 「興居島の柑橘の魅力は味が濃いことにあると私(Cさん)は思います。興居島は雨の少ない地域ですので、果実に養分が集まって甘みが強く、そして適度な酸味があるために味がしっかりとしています。昭和30年代から昭和40年代の初めにかけて温州ミカンの生産量は増えていき、興居島ミカンは味の良いミカンとして有名になり、ブランド力を持つようになりました。しかし、昭和40年代に入ってから全国の温州ミカンの生産量が増加したことによって供給過剰となり、温州ミカンの値が下がるようになって年によっては暴落するようになりました。」
ウ 宮内イヨカンへの転作
(ア)農業後継者たちの努力
 「私(Bさん)が若いころは、『温州ミカンさえ作っておけば何とかなる。』という雰囲気が浸透していた時代で、そのころはみんなが温州ミカンを作っていました。それが昭和42年(1967年)から昭和44年(1969年)にかけて連続して価格が暴落し、温州ミカン栽培が行き詰ってしまったのです。昭和44年の暴落の直後、『由良地区は全て宮内イヨカンに切り替えよう。』という気運が盛り上がりました。私たち農業後継者の若手を中心に、強い決意を持って臨もうとしていて、一種の賭けに出た感じだったことを憶えています。私たちの世代は、『農家の長男は家業を継ぐ』ということが浸透していた時代でした。口に出さなくても、そのことは子どもながらに理解していましたから、どの農家も一人は後継者がいたのです。私が25、26歳くらいのころ、当時の松山市の農業後継者の集まりで1日研修旅行が企画されたことがあるのですが、そのとき大型バス3台くらいで移動したことを記憶しています。当然全員が参加しているのではありませんから、実際はもっといたと思います。
 宮内イヨカンを増やすに当たって方法が二つあり、一つは苗木を植えて育てる方法で、もう一つはそれまでのミカンの木に接ぎ木をする方法でした。苗木から育てた場合、実がなるまでに数年掛かるため収入がなくなる期間が長くなりますが、接ぎ木なら苗木から育てる場合よりも3年から5年早く実がなるため、そちらの方法を選択しました。年配の方の中には接ぎ木をした経験のない人が多かったため、当時若手であった私たちがそれらの農家に行って接ぎ木をして回りました。当時、興居島の農協は三つに分かれていましたが、若手の集まりは興居島で一つにまとまっていました。昭和45年(1970年)ころ、私たちは自らの園地の接ぎ木の傍ら、各地の接ぎ木ができない農家を回って宮内イヨカンを増やすことに全力を注いでいました。『興居島を宮内イヨカンの産地にしよう、それで興居島の農家を一つにまとめよう。』、当時の私たちは使命感に燃えていましたし、振り返ってみると当時は夢と希望があったと思います。宮内イヨカンを作れば収入が増える、生活できる、この信念があったからこそやり通せたのだと思います。」
 「宮内イヨカンは松山市平田町の農家である宮内義正氏が見つけた品種ですが、早生(わせ)イヨカンとか勝山イヨカンと呼ばれ、当時世に出たばかりのものでした。この宮内イヨカンを選択した理由ですが、お正月商品として購入してもらいたかったからです。一般的にイヨカンの収穫時期は年明け後の1月からになります。宮内イヨカンは、『普通イヨカン』と呼ばれていたそれまでのイヨカンに比べて着色が早かったので、促成栽培をすればお正月に間に合っていたのです。また、進物用として購入されていたので、買ってからすぐに食べることがないため、その間に味が良くなることを見越していました。
 興居島は柑橘でも中晩柑の栽培に適していると私(Aさん)は思います。例えば、早生ミカンの栽培が盛んな八(や)幡(わた)浜(はま)市の真穴地区は、沿岸の海水温が黒潮の影響で高くなっていて早い時期の収穫に適しています。しかし、興居島は黒潮の影響がないため春の海水温が南予沖よりも低く、植物の開花の時期が遅くなります。例えば桜の開花でも、松山市西部の梅津寺よりも内陸の松山城の方が早くなっています。興居島では柑橘の開花が遅いために、早生ミカンの栽培に適していません。しかし、秋口になっても興居島沖の海水温は冷めにくいため、夜間の温度がよそよりも下がらず、気温の日較差が大きくありません。温州ミカンが色づくためには気温の日較差が大きいことが条件ですが、宮内イヨカンはそれほどでもないので興居島は宮内イヨカンをはじめとする中晩柑の適作地だったのです。宮内イヨカンの収穫は1月以降となりますので冬を越す必要があり、早朝の冷え込みで果実が凍結する恐れがあります。ですが、興居島で氷が張るような寒さまで気温が低下する日は滅多にありませんから、宮内イヨカンの栽培に向いています。
 若手が中心となって宮内イヨカンの栽培に着手したころ、興居島の全ての農家が青年団の熱意に引っ張られていった感じでした。青年団は自分たちで独自に配合した肥料を作り、各戸に注文を取っていました。山林も次々と開墾していきましたが、開墾直後は宮内イヨカンではなく、スイカを植えていたことを憶えています。最盛期には由良農協での柑橘の売り上げが7億円近くまでになっていました。やがて、温州ミカンのときと同様に市場に出回る量が増えていくと宮内イヨカンの値が下がり、徐々に出荷量が減少していきました。」
 「既存の農地だけでなく、島の山林を開墾して柑橘畑に変えていきました。毎年開墾を行って農地を増やしていましたが、当時は重機を使わないで手作業で開墾を行っていました。そのような経緯があって興居島は宮内イヨカンの産地へと変わっていき、約30年間は良い収入を得ることができました。他の産業でも30年周期で変化が訪れると聞いたことがあって、『30年たつとそれまでのやり方が通用しなくなる』ということを意味しているのですが、宮内イヨカンも30年間は良い収入をもたらしてくれました。そのころは作れば作るだけ収入が得られたので、忙しい日々を過ごしましたが、楽しくやっていたことを私(Bさん)は憶えています。」
(イ)宮内イヨカン栽培の苦労
 「宮内イヨカンは収穫してから出荷までの期間が長いところに特徴があると私(Aさん)は思います。年明けから収穫をして、4月の初めまで出荷をしていきます。このため貯蔵期間が長く、注意深く見ておかないと腐らせてしまいます。一つが腐ると周りに広がって全部が駄目になってしまいますから、貯蔵管理には相当に気を遣います。ガタガタと運搬すると果実が傷みますから、1個1個の果実の取り扱いを丁寧に行っています。貯蔵庫では温度と湿度を管理しています。湿度が低すぎるとしなびてしまいますし、逆に高いとカビが発生してしまいます。だから『貯蔵庫に入れてしまえばあとは安心』とはなりません。貯蔵庫に入れた後も温度と湿度をチェックするだけでなく、木になっているときと同じように宮内イヨカンそのものも頻繁に見て確認することが求められます。貯蔵庫は各農家が所有しており、その機能も立地条件も異なりますから、各自適切な環境を整える必要があります。宮内イヨカン作りが始まってから貯蔵庫を作る農家が増えていきましたが、設備投資に費用が掛かるようになっていきました。」
 「宮内イヨカン作りで大変だったり難しかったりする作業は、剪(せん)定と摘果になると私(Bさん)は思います。害虫の防除は農協からの指導に従って行いますが、剪定と摘果は農家それぞれの技術次第になってきます。夏に摘果を行って秋に入るころには済ませていましたので、栽培面積を増やしていたころは摘果後に開墾に取り掛かり、毎年のように畑を増やしていきました。宮内イヨカンは年明けから3月までが出荷の時期に当たり、12月に出荷するものは厳選していました。本来、宮内イヨカンの果実が十分に熟するのは2月で、そのころまで収穫しないでいればおおむね果実は熟しています。しかし、その時に収穫した宮内イヨカンは長期間持たない特質があり、さらに遅くまで木にならせておくと、その間も木から養分を取っている訳ですから、次の年の養分が木に残らないことになりますので、少し早めに採って貯蔵庫の中で熟していくことが必要なのです。」
(ウ)泊地区の工夫
 「昭和40年代後半から昭和50年代初めにかけて、興居島でも温州ミカンから宮内イヨカンへの品種の転換が行われ、宮内イヨカン作りが全盛期を迎えていきました。宮内イヨカンを栽培するに当たって農協からも作付けを勧める呼び掛けが強くなされ、宮内イヨカンを栽培した場合と温州ミカンを作り続けた場合の収入の推移をグラフにした資料等が配られていたことを私(Dさん)は憶えています。同じころにキウイフルーツの栽培にも取り組むようになりましたが、10年と持たなかったことを憶えています。ニュージーランド産のキウイフルーツの輸入が自由化されて、国産よりも安価なニュージーランド産に太刀打ちできなかったからです。
 昭和の終わりから平成の初めにかけてイヨカンの値段はとても良かったことを私は憶えています。12kgの段ボールに詰めたイヨカンに8,000円から10,000円の値段が付いていました。同じ重さのイヨカンが現在は1,000円から良くて2,000円の値段ですから、今思えば夢のような時代だったと思います。私のところでも当時は栽培面積が一番広かった時期で、7町(約7ha)の畑でイヨカンを作っていました。ビニールハウスを設けて、ハウスミカンも栽培していました。すると、露地栽培の世話ができない雨の日もハウスで柑橘の世話をするようになったので、休みを取る時間がなくなっていったことを憶えています。働いた分収入を得ることもできたのですが、今は体が持たなくなってしまうのでハウス栽培はやめています。」
 「宮内イヨカンは各農家で収穫した後、共同選果場に集めて選果と箱詰めを行って出荷していました。共同選果場から農協に出荷し、農協が大阪や名古屋といった都市部に出荷していました。その他の中晩柑は各農家が箱詰めして、農協に出荷していました。共同選果場は泊農協が松山市農協と合併した平成3年(1991年)にできたものです。松山市農協の下、宮内イヨカンについては共同選果場を通して出荷していましたが、一部の柑橘については個々の農家の裁量で販売することが認められていました。私(Cさん)のところも親戚に送っていた柑橘が近所で評判になったことがきっかけで通信販売を行うようになり、現在もそれを続けています。」

(2) 現在の柑橘栽培

ア 多品種栽培
 「平成に入り、宮内イヨカンの値が低下するようになったころ、新品種としてデコポンやせとかといった柑橘品種が入ってきて、それが興居島に適した品種かどうか試験的に栽培するようになりました。さらに、一つの品種を作り続けることは危険だということになって、幾つかの品種を栽培し、ビニールハウスを建てて収穫時期を調整するなどの試みが行われました。ところが、このころから興居島の人口減少が目立つようになりました。私(Bさん)は、地域の産業が駄目になると人口減少が加速すると思っていますが、宮内イヨカンによる活況を失った当時の興居島がそれに当たったのだと思っています。同時に、そのころから農業後継者を確保できなくなり、農業を廃業する家が見られるようになりました。それでも周りの農家が農地を手に入れたり、借りたりして柑橘栽培を続けていたのですが、現在は農業を続けていた家でも高齢のため農業をやめる動きが出てきました。
 私のところでは現在、デコポンやせとか、カラマンダリンから派生した南津海、紅まどんな等、5、6種の品種を作っています。周りを見渡しても一つの品種のみに重きを置いて柑橘を作っている農家は見られませんし、幾つかの品種を同時に作っています。品種が複数になれば、その分作業の内容も異なり、さらに露地栽培に加えて施設栽培を行うと、設備に掛ける費用も多くなってきます。宮内イヨカンが主力品種だったころは、限られた畑の中でどれだけ実らせることができるかが重要でしたから体力勝負の一面がありましたが、宮内イヨカンのことだけを考えていれば良かったのでその点では楽だったと思います。しかし、現在は栽培品種の数だけいろいろと考えないといけませんから、今の方が気を遣いますし精神的に大変だと思います。」
 「宮内イヨカン栽培が盛んだったころは、兼業の形態でも十分にやっていけました。平日はお父さんが松山市内に働きに出てお母さんが山で仕事をし、休日にはお父さんが農業に従事する家は大抵小規模農家ですが、宮内イヨカンの値が良い時期はそれでも経営が成り立っていました。それが宮内イヨカン栽培から多品種栽培に移行すると、これらの家庭が農業を続けられなくなり、規模が大きな専業農家と農業を廃業する家の二極化が起きたのです。
 宮内イヨカンは他の柑橘に比べて自然災害に強い面がありますから、その点では作りやすいと私(Aさん)は思いますが、今は単価が安くなっています。一方で、紅まどんな等の新品種は単価が良いので、自然と生産量が増えていますが、繊細で傷みやすい特徴があるために注意して扱う必要があります。例えば、収穫時にできるへたの切り口は他の柑橘を傷つける原因となります。宮内イヨカンはへたの所が引っ込んだ形になっていますので、転がしても傷が付くことはほとんどありませんし傷みに強い品種です。ですが新品種の多くはへたの所が突き出た形になっているため、はさみで入念に枝を落としておく必要があります。共同選果場では、転がして選果を行うことはできず、1個1個受け皿のある機械に載せる必要がありますし、手でつかむというより手のひらに載せるようにして扱う必要があります。農薬の跡が一つでも残ることは許されませんから1個1個拭く必要もあり、大変な手間が掛かるのです。」
 「ここ10年は新品種の栽培が奨励されて多くの品種を作っていますが、新品種の特徴として果実が繊細であるために、少しの環境の変化で実に傷が付いたり傷んだりするために今まで以上に注意が必要だと私(Cさん)は思います。また、水が今までよりも多く必要になっていますので、水の確保にも苦労しています。雨が少ない所ですから、これまでも水の確保のために各農家が井戸を掘ってきました。最近ではボーリングを行って、さらに深い所から水をくみ上げる農家もあります。ため池の水はよどんでいる場合がありますので、そのまま柑橘に掛けると病気にかかる恐れがありますのでかん水用として利用していません。」
イ 農業後継者の確保
 「私(Bさん)が農業を継いだころには由良農協が結成されており、団結力も強かったことを憶えています。やがて由良農協は温泉青果農協と合併し、そして現在のえひめ中央農協となっています。農業を継いだころ、私のような農業後継者は興居島全体で50人くらいいたと思います。農協主催の対抗ソフトボール大会があると3チームは出していました。それだけのチームを出していたのは興居島だけだったと思いますし、当時は興居島のチームが松山地区で一番強かったことを憶えています。地区大会の次は県大会に進出するのですが、八幡浜の真穴地区のチームには勝てなかったことを憶えています。そのころから真穴地区は温州ミカン栽培で裕福だったと思いますし、今も真穴地区の温州ミカンは品質が良いので、元気でやる気のある後継者が昔から地域に多く残り、今も若い後継者が残っているのだと思います。
 私のところは、私と妻と息子で農業をしています。息子は興居島ではなく対岸の松山市内から通ってきて柑橘栽培に従事しています。最初、息子から通いで農業をするという話を聞いたとき、そんな事例がなかったので大変驚いたのですが、現在はそのようなやり方で農業をする人が増えてきました。」
 「昭和20年代の初め、興居島の人口は7,000人近くありましたが、現在は1,000人を切っています。しかし、今でも摘果や収穫の時期になると人手が必要ですので、そのときには対岸の松山市内からアルバイトを募集して働いてもらっていて、朝のフェリーで興居島に渡る人が多くなりました。昭和30年代や40年代、泊地区では果樹栽培で良い収入を得る農家が多くあり、子どもたちの教育に力を入れ、県外の大学に進学させる家庭が幾つかありました。泊地区出身の大学教授や研究者も何人か輩出されたり、他にも県外で活躍している人が出てきたりしましたが、その人たちは興居島に帰って来ませんから実家の方は後継者がないために農業をやめるようになり、そのような理由から泊地区では農業後継者問題や空き家問題に悩んでいます。
 最近では、興居島に移住して柑橘栽培をする若い世代の姿も何人か見られるようになりました。興居島ミカンという名称が全国的にも知られるまでに成長したことも影響していると思います。その若い人たちが、先人が積み上げてきた興居島の柑橘栽培の方法を引き継いで、再び柑橘の生産量を増やしてくれることを私(Dさん)は願っています。」
 「私(Cさん)は学校を卒業後、当時東野にあった果樹試験場に1年間通った後に家の農業を継ぎ、現在までここ泊地区で柑橘栽培を行ってきました。息子も柑橘栽培を行っており、昨年から仕事の一切を任せて私は裏方に回っています。そして孫も後継者として柑橘栽培に従事しています。かつて、最盛期に200町(約200ha)の柑橘畑があった泊地区ですが、現在は半分くらいに減少してしまいました。後継者の存在は柑橘畑を増やしていけることや、積極的に新品種の栽培に取り組むことを可能にさせています。私だけであったら新品種の栽培に着手することは難しかったと思います。」
ウ 獣害
 「私(Cさん)のところでは最近までビワ栽培を続けていました。しかし、カラスによる食害がひどくなり、それを避けるための労力が大変な量になってしまったので、現在はレモン畑に変えています。鳥による食害は対策しなければなりませんが、現在はイノシシによる食害も増えています。もともと興居島にイノシシは生息していませんでしたが、先に中島の方がイノシシの食害に悩まされるようになり、そこから海を渡って興居島にも居着くようになりました。広島県の方から生息地域が拡大して中島にやって来るようになったそうです。獣害に備えるために畑の周りにネットを巡らせたりして対策が大掛かりになって大変です。」
 「私(Bさん)が農協の役員を務めていたころ、興居島の農地は約500町(約500ha)、そのうち由良農協管内の農地が約200町(約200ha)あって、農業従事者は興居島全体で200人いました。それが現在、農地は半減し従事者は90人を切るくらいになっています。手放された農地は荒れ地となり、今はイノシシの住みかになっています。20年前までは見掛けていませんでしたがその後数が増えていて、最近は朝昼晩を問わず見掛けるようになっています。バイクに乗っているときに見掛けるとクラクションを鳴らして追い払いますが、畑仕事の最中に出くわすと人の声では逃げないので、笛をぶら下げておこうと考えています。」
 「現在は野生動物による食害がひどく、興居島はイノシシの被害に悩まされて私(Aさん)も困っています。もともと生息していなかったのですが、よそから泳いで来て住み着き、頭数を増やしていったのです。興居島よりも中島や睦月島の方が先に被害に遭っていました。かつて、公民館で愛媛大学の先生に聞いた話ですが、興居島はイノシシにとって快適な環境だそうで、住みかから餌場までが近いことと、冬季にさほど気温が低下しないで暖かいことに関わりがあると話していました。柵をしても、地面を掘り進んで来ますから効果がありません。イモ類が好物ですから、畑のサツマイモを全部食べてしまいます。」