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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業24-松山市②-(令和5年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 興居島のくらし

(1) 季節感のあるくらし

ア 戦前の興居島
 「興居島の南にある泊地区の沿岸部では、戦前は機帆船を所有する家が多くあったと聞いています。瀬戸内海上で北九州と大阪を行き来して物資を輸送しており、特に北九州から石炭を運んでいたと聞いています。機帆船は接岸できなかったので沖合に停泊し、和船で陸と行き来していました。私(Dさん)のところでも4隻の機帆船を所有していて船子と呼ばれた船の乗り手をたくさん雇っていたそうです。私が嫁いできたとき、家に大きなもろ蓋が幾つもあって、何に使うのか聞いたところ船子に食べさせる寿司(すし)を作るために用意していると聞いたことを憶えています。ただ、機帆船は太平洋戦争の末期に政府に接収されてしまったために、戦後も船主として存続することはできませんでした。」
 「私(Cさん)の祖父は睦月島の出身で、移民としてアメリカのカリフォルニア州に渡り、その後帰国してこの泊地区で住むようになったそうです。瀬戸内海の島々では、山口県の周防大島(すおうおおしま)の住民がハワイ州に移住したことが知られていますが、睦月島でも明治以降に移住をした人たちがいたのです。」
イ 四季を感じる行事
(ア)年中行事
 「かつて興居島では季節ごとの行事が盛んに行われていましたし、行事を通して四季の移り変わりを感じることができていたと私(Dさん)は思います。正月には泊地区にある小富士に登って初日の出を拝むことが習わしで、頂上では小富士を信仰する人が餅を焼いてくれ、家に帰ってそれを食べて一年の健康を願っていました(写真2-2-1参照)。4月3日の節句のとき、島ではあちこちにモモの花が咲いてまさに『桃の節句』でした。そのときはみんながごちそうを作ってモモの木の下で食べて楽しんでいました。6月5日にはかしわ餅を必ず作っていましたし、7月の輪越しのときにはとら巻を作っていました。さらに泊地区の厳島神社で旧暦の6月17日に行われる十七夜の祭りが盛んで、この行事は宮島の厳島神社の管弦祭に合わせて行われていました。漁業の祭りでもあったために、三津浜や高浜、和気地区から船が沢山やって来ていました。そして盆踊りがにぎやかで、秋祭りも神(み)輿(こし)や船踊りが盛大に行われていましたし、秋には亥(い)の子も行われていました。これらの行事が現在ではなくなったり、細々と行われるだけになったりしています。
 これらの行事の中で最もにぎわっていたのは厳島神社の十七夜でして、三津浜にも厳島神社がありますが、あちらの十七夜は現在の暦の7月17日に行われていましたから、旧暦に開かれる泊地区の十七夜と日が違っていました。だから、泊地区の十七夜のときは対岸からも人がやって来て、お宮の前は屋台も多く立てられて歩けないくらい混雑していたことを憶えています。昭和60年(1985年)くらいまでは相当にぎわっていて、当時は興居島の人口も今より多く、漁業従事者もいましたし、昭和52(1977)年に上映された『男はつらいよ』の中でもその様子が再現されたくらい有名だったのです(写真2-2-2参照)。」
 「今思えば、昔の方が趣のある生活を送っていたように私(Bさん)は思います。現在に比べれば休日は少ないですが、正月は松の内までゆっくりして、4月に節句があって2日ほど休みがあり、8月は盆休み、秋に祭りがあって運動会がある、1年の流れが定まっていました。今は各家庭の都合に合わせて休みが取りやすくなりましたが、みんなが一斉に休んでいた昔の方が季節感があったように思います。」
(イ)船踊り
 「興居島の秋祭りは、各地区から神輿が出るだけでなく、『船踊り』と呼ばれる独自の行事がありました。昭和のころはとても盛んに行われていて、島の人たちは祭りや船踊りを楽しみにしていましたし、京阪神方面に働きに出ている人も帰省していました。興居島の祭りは10月4日と5日に行われていましたが、旧松山市と合併してからは10月7日に移りました。船踊りは、海上で歌舞伎を披露する伝統行事ですが、興居島の中央に位置する船越神社前の海上で披露されます(写真2-2-3参照)。海上に舞台を設ける必要があるのですが、自動車が普及する以前、つまり多くの家庭が伝馬船を所有していたころは、伝馬船の上に丸太を乗せ、それらをロープでくくり付けて舞台を作り上げていました。そして舞台の上で太鼓の演奏に合わせて踊るのですが、各地区で太鼓のリズムが異なっていました。その理由は、同じ舞台でそれぞれの地区の踊り手が自分の地区の太鼓に合わせて踊るため、同じリズムであると混乱してしまうからです。
 船踊りは、戦後一旦は廃れていましたが、昭和30年代の初め、私(Aさん)が青年団に所属していたときに復活を提言し、それが受け入れられて再開しました。復活してしばらくは、各地区から踊り船が出され、地区によっては舞台を二つ出すところもありました。海上ですから、波や海風によって舞台が動いてしまいます。当初は伝馬船に舞台を載せていましたから、踊りに出ない者はロープで引っ張ったり櫓(ろ)をこいだりして船を固定させることに従事していました。役割がたくさんありましたから、その点でも京阪神から人が帰ってこないと人手が足りないような状況でした。子どもから高齢者まで、どの世代も踊りや太鼓の演奏に関わり、踊り船の繰り手も加わって、さらに各地区から舞台が出されるものですから、島を挙げての一大行事だったのです。本番の1か月前から踊りや太鼓の練習だけでなく、踊り船の準備や操り方の練習をしていたので活気に満ちていました。もともと興居島は瀬戸内海の海運の拠点の役割を担っていたので、海運業に従事する人が多い地域でした。その人たちは、祭りが近くなると仕事そっちのけで船踊りの準備に掛かり、『祭りが終わらないと仕事に行かん。』と言っていたことを憶えています。興居島が一丸となって行いますから、島ならではの伝統行事なのだと思います。」
 「武士が活躍していた時代、興居島の南に村上水軍の見張り台や砦(とりで)が築かれていて、付近を航行する船を見張っていたという言い伝えがあります。その時代の名残が船踊りのルーツであると言われています。戦勝祝いの意味も込めて船踊りが行われているようですから、舞台も大掛かりな造りになっていますし衣装も高価な物が使われています。船踊りの踊りの様子は歌舞伎を連想してもらうと良いと思います。舞台造りから踊りまで、住民の多くが準備に関わらないと実施できない伝統行事です。愛媛県の無形民俗文化財に指定されていますが、他の地域で同じような行事が行われていることは聞いたことがありません。現在も船踊りは続いていますが、全ての地区が上演するのではなく当番制になっています。人手不足もあって、昨年は海上ではなく体育館で上演されました。担い手が少なくなっていますので、いつまで続けられるのか私(Bさん)は心配しています。」
ウ 興居島の風景
(ア)由良地区の商店
 「終戦直後は7,000人くらいいた興居島の人口ですが、私(Bさん)が農業を継いだころでも3,000人が島で暮らしていました。それだけの人口がいましたから、商店街とまではいかなくても、由良公民館のある由良地区にはそれなりに店が建っていました。公民館の北側に、現在は移住希望者向けの体験型住宅が建っていますが、以前はそこが由良小学校でした。その小学校の校門から個人商店が2軒あり、食堂や日用品店、鮮魚店に肉屋、郵便局が並んでいました。各地区にも2、3軒は店があったことを憶えています。生活に必要な品物は島内で買うことができていましたし、その他の物は松山の中心市街に行って購入していましたが、途中で三津浜を通りますので三津浜で買う人もいたと思います。私が小さいころは、三津浜にあった映画館に映画を観(み)に行っていたことを憶えています。
 興居島に移住する人も何人かいまして、茨城県から移住した人はキッチンカーを運転して、島の各地で営業を続けています。せっかく遠方から島に移住してきたのですから、生活が成り立っていければいいなと思っています。」
 「現在は由良港の脇にAコープが建っているだけになりました(写真2-2-4参照)。各集落には移動販売車や生協が巡回して、高齢者を中心に利用しています。かつて昭和20年代から40年代にかけて、生活必需品が島内で入手しづらいということもなく、島内で買い物を済ませることができていました。各家庭に車が普及してくると、フェリーに乗って高浜港で降りて中心市街に向かいます。それ以前は渡海船が三津浜港に行き来していましたから、こちらから農産物を運んだ帰りに品物を仕入れていましたので、高浜で買い物をすることはなかったと思います。三津浜では、そごうマートやセブンスターといったスーパーマーケットができるまでは、三津浜商店街で買い物をしていました。
 最近は興居島に移住した人がクラフトビールの店を開いたり、港の近くにコーヒーショップやうどん屋、弁当店が開店したりと店の新規参入も幾つかあります。しかし、どうしても基幹産業である農業がしっかりと存続していかないと駄目だと私(Aさん)は感じています。」
(イ)興居島を訪れる人々
 「興居島を多くの人が訪れる出来事として、春の島四国八十八か所や夏の海水浴がありました。毎年4月20日と21日に行われる島四国八十八か所では、四国八十八か所の寺院を模したお堂を歩いてお参りしていきます(写真2-2-5参照)。大体1日で参拝を終えることができますが、戦前のころは興居島に来る船便が少なかったため、参拝者を宿泊させる善根宿を請け負う家庭がありました。今も1,000人くらいの参拝者が来ていますが、島を歩いて回るのではなく車でお堂を回る人も増えています。お堂は高所に置かれている所もありましたが、果樹園をやめて荒れた土地が増えたために、農道が通れなくなってしまいました。そこで現在は、お堂を麓の道路沿いに移しています。夏の海水浴は、昭和30年代に鷲ヶ巣の海水浴場が整備されたこともあって、島外から多くの人がやって来ていたことを私(Dさん)は憶えています。本当に多くの人が来ていて、そのときは船一杯に乗客が乗っていたことを憶えています。当時は電車や船といった公共の交通機関が移動手段の中心であり、その点で興居島は訪れやすい所だったのです。しかし、各家庭が車を持つようになると興居島に海水浴客が集中することもなく、さらに平成3年(1991年)に大きな被害をもたらした台風19号によって海水浴場の施設が被害を受けると、以前のようなにぎわいを取り戻すことはなくなりました。」

(2) 台風19号の被害

 「平成3年(1991年)9月27日から28日にかけて、100年に1度と表現されるような大型の台風19号の通過によって柑橘畑が甚大な被害を受けました。大抵、台風といえば猛烈な風が吹き付けて大雨に見舞われますが、台風19号は雨が降らないで猛烈な強風だけが吹き付けていた点に特徴がありました。台風の接近によって気圧が大きく低下して海水面が上昇し、強風にあおられて塩水が山上まで巻き上げられ、塩害のために宮内イヨカンの木がやられてしまいました。木が茶色に変色し、葉っぱも果実も焼けたようになって全部駄目になり、その後枯れてしまった木もありました。私(Bさん)が暮らす集落は北に向かって開けていて中島が見える場所にありますが、沿岸部の住宅は全て高波の被害に遭いました。気圧の低下によって高潮が発生し、それが強風にあおられて打ち付けてきますから、今思えば一種の津波だったと思います。
 さらに、平成6年(1994年)は大渇水に見舞われ、梅雨時から9月末まで雨が降らなかったため再び柑橘は被害を受けました。一時暴落する年もありながらも、昭和や平成の初めまで宮内イヨカンは良い値で推移していたのですが、大渇水の後はずっと宮内イヨカンの価格が安かったことを憶えています。」
 「台風19号による塩害ですが、例えるなら巨大な扇風機を設置して塩水を当てているようなものでした。塩水を掛けては乾かし、再び掛けては乾かしの繰り返しだったのです。葉も果実も駄目になり、植樹してから年月が新しい若い木で水の確保が容易な場所にあった木は回復しましたが、水の確保が難しかった所は、十分に塩水を洗い流すことができなかったために木を枯らせてしまいました。
 台風の風は南西から北東方向に向かって吹いていたので、風の通り道に当たった島の西部の鷲ヶ巣地区や北西部の北浦地区は何時間も海水にさらされたことになりますから、宮内イヨカンの畑のみならず住宅の方でも被害を受けました。後で柑橘の被害の分布を見ると、定規を当てたかのように被害の境界がはっきりしていました。沿岸部は護岸用のパラペットが設置されていますが、それらを越えて海水が打ち付けられ、かえってパラペットがあるために海水がはけることなくたまってしまいました。当時私(Aさん)が乗っていた軽トラックも高潮によってエンジンが海水につかってしまい、結局廃車にしないといけなくなりました。」


参考文献
・ 愛媛県『愛媛県史 社会経済Ⅰ農林水産』1986
・ 平凡社『愛媛県の地名』1988
・ 松山市『松山市史 第四巻』1995
・ 愛媛県『愛媛県市町要覧』2022