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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業24-松山市②-(令和5年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

第3節 松山市沿岸部の産業と人々のくらし

 旧松山(まつやま)市の西部にある沿岸地域は、明治22年(1889年)の町村制施行によって北側より味生(みぶ)村、生石(しょうせき)村、垣生(はぶ)村が成立した。昭和15年(1940年)に味生村が、昭和19年(1944年)には生石村と垣生村がそれぞれ松山市に編入されて現在に至る。三津浜の南から重信川の河口にかけて砂浜と松林が続く海浜で、内陸部には田畑が広がっていた。沿岸部では半農半漁の生活が営まれ、内陸部は農村が点在していた。
 昭和16年(1941年)、生石村の吉田浜に松山海軍航空隊基地の建設が開始され、昭和18年(1943年)に600mの滑走路を持つ飛行場が完成した。航空隊基地では、松山海軍航空隊の下で甲種飛行予科練習生の養成が行われ、終戦までに約1万5,000人が航空搭乗員の初期訓練を受けた。終戦後、GHQによって接収されるが、昭和27年(1952年)の接収解除を受けて民間空港として運用されるようになり、小型機やヘリコプター、不定期便の発着場として利用されていた。昭和30年代前半に改修工事が施された後、松山-大阪間の定期航路が就航し、以降、段階的に拡張と改修が行われて現在の姿へと変遷している。
 昭和19年(1944年)、かつて松山藩が築いた大可賀新田の地に丸善石油松山製油所が建設され、戦後の休止期間を経て同27年より操業を再開した。以後、沿岸部には大阪ソーダや帝人の工場も進出することによって西部沿岸地区は工業地帯へと変貌し、内陸部は工場に勤務する従業員向けの住宅地が多く建設された。
 重信川河口に近い垣生村では、西垣生地区を中心に江戸時代後期に鍵谷カナによって伊予絣(かすり)が考案され、明治に入って松山を代表する織物にまで成長した。その後、昭和初期の恐慌を乗り切って発展を続けるものの、戦後に入って化学繊維工業の拡大に押されて伊予絣産業は徐々に衰退していった。
本節では、松山市の西部沿岸地域の戦後の産業と生活に注目し、味生地区の産業とくらしについて、Aさん(昭和16年生まれ)から、松山空港周辺の産業とくらしについて、Bさん(昭和19年生まれ)、Cさん(昭和23年生まれ)から、垣生地区の産業とくらしについて、Dさん(昭和9年生まれ)から、それぞれ話を聞いた。