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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業24-松山市②-(令和5年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 石油化学工業

(1) 丸善石油松山製油所

ア 丸善石油松山製油所の設立
 「私(Aさん)は当時の今治市で生まれ、一家は戦時中そこで暮らしていましたので、今治空襲のときに防空壕(ごう)に逃げ込んだ記憶も残っています。その後一家は引っ越しをして、私は川之江高校に進学し、野球部に入ってキャプテンも務めていました。川之江高校は今年(令和5年〔2023年〕)夏の全国大会に出場しましたが、21年前にも甲子園に出場していて、その時はOBとして甲子園まで手伝いに行ったことを憶えています。高校を卒業後、丸善石油松山製油所に就職しましたが、会社は合併や再編を経て、現在の名称はコスモ石油松山となっています。
 松山製油所は戦時下の昭和19年(1944年)に建てられ、戦後は操業を止めていたのですが、昭和27年(1952年)より操業を再開しました。私が就職したのは再開後しばらくたった時期になります。私が就職したころは、戦後の復興の空気は過去のものになっていて、好景気に沸いていました。高校の卒業式の前にしばらく登校をしない期間がありますが、そのときに仕事に来るように言われたことを憶えています。卒業式のときだけ川之江(かわのえ)に戻り、終わったらそのまま松山に戻って仕事に従事しました。一日でも早く仕事に慣れてほしいという考えが会社にあったのだと思います。」
イ 松山製油所周辺の景観
 「丸善石油松山製油所の敷地は、江戸時代後期に松山藩が開発した大可賀新田の場所に当たりますが、私(Aさん)が就職したころは製油所の設備以外の建物はありませんでした。現在の味生公民館の所には保育園が建っていて、東側には丸善石油の東社宅が建っていました。現在の味生第二小学校が建っている場所です。現在の味生公民館の南側にある松山市役所の味生支所と交番は今の場所に変わらず建っていて、北側には新田高校が建っていました。新田高校の西には製材所がありましたが、その他で大きな建物はなく、民家がまばらにあるくらいでしたので、伊予鉄山西駅を降り県道に出ると、大可賀新田にある松山製油所の建物がはっきりと見えていたことを憶えています。私が就職した当時、新田高校には自動車の教習所もありました。
 私は入社後、昭和39年(1964年)に結婚し、西社宅と呼ばれていた社宅に入りました。ここは現在、別府市民運動広場になっています。運動広場の近くにあるアイテムえひめの敷地も、かつては丸善石油の所有地で消火訓練場や資材置き場でした。
 松山製油所の北側と西側は海岸というよりも海浜になっていて松林が連なっていました。そして、流下式の塩田があったことを憶えています。新田高校の西にあった製材所が三津浜に移転し、現在の三津大可賀公園の所にあった墓地も移転した後、この一帯は区画整理を経て住宅地へと変わっていきましたが、かつては松林と砂地の畑が広がっているだけの場所だったので、今思えば想像もつかないくらい変貌を遂げています(写真2-3-1参照)。」
ウ 松山製油所での仕事
(ア)高度経済成長の下で
 「私(Aさん)が就職した昭和35年(1960年)は高度経済成長期に当たりますから、当初からとても忙しく働いていたことを憶えています。丸善石油松山製油所にはタンカーによって原油が運ばれ、精製を通していろいろな石油製品を製造していました。精製の過程で、まずプロパンとブタンを精製し、次にガソリンをはじめとする揮発油類、そして軽油と重油を精製していました。松山製油所が操業を再開した昭和20年代後半は、まだ物資不足の時代でしたから、精製したらすぐに船に載せて全国各地に運んでいたそうで、タンカーが接岸の順番待ちをしていたくらいだと聞いています。
 私は松山製油所で石油精製を行う装置の運転等の担当でしたが、ほとんど自動化されているので肉体労働というものではありませんでした。私は、福井県の会社に3年ほど出向したことがありましたが、それ以外は一貫して松山製油所で勤務しました。
 高度経済成長期のころ、1年間で給料が3万円上がっていって『こんなに上がっていいのだろうか』と思ったことを憶えています。当時の丸善石油は厚生施設が充実していて、大分県の別(べっ)府(ぷ)やこちらの奥道後に保養所を持ち、海の家も幾つか所有していました。当時としては他の会社に比べると休暇の制度も充実していましたが、あのころは会社を休むと罪悪感を持つような時代でしたから、みんな休暇を取っていませんでした。
 残業は機械を止めて整備をするときにあったくらいですが、責任者の立場に就くようになると結構残業をするようになって、月に100時間近くありましたから、月給をもらうときにボーナスくらいの金額になっていたことを憶えています。また、職業柄多くの資格を取得し、ボイラー整備士、一級ボイラー技士、高圧ガス作業主任者や危険物取扱者、消防設備士の資格も取りました。
 装置は24時間止まらず稼働していますから、交代制で運転監視に当たっていました。当番制で夜勤もありましたが、当時は、松山製油所の周辺に社宅が幾つも建っていましたから、みんな近くに住んでいました。製油所の周辺に関連施設や社宅が集まっていましたし、硬式野球部があった関係で合宿所も建っていました。
 入社してから昭和40年代までの間は、仕事が忙しかった時期で、昭和48年(1973年)にオイルショックが起きると、原油価格の高騰によって搬入される原油量も減りましたが、松山製油所は大きな工場ではなかったので悪影響は限定的だったと思います。出向に行ったことを除けば、私は業務内容が大きく変わることなく定年退職を迎えました。その間、忙しくはありましたが、その分給料もボーナスも良かったと思います。定年近くのころは、松山市長と同じくらいのボーナスをもらっていたと思います。」
(イ)社員の生活
 「仕事を終えると、三津浜に行ってちょっと酒を飲んだ後で、タクシーに乗って松山市街に行くこともあったと私(Aさん)は憶えています。景気が良いころは、丸善石油の社員だと言えば、初めて行った店でも付け払いにしてくれていました。そして給料日になると、工場の門の辺りに店の人が待ち構えていたことを憶えています。中には付け払いをやり過ぎて借金で首が回らなくなって、最後は親に頼んで支払いをしている人もいて、今では考えられないような光景がありました。会社の食堂や社寮では、地方祭をはじめとする行事があったときには、寿司(すし)とか行事に関係するごちそうを従業員に振る舞うこともありました。」
(2) 変わり続けた戦後の味生地区

ア 戦前の味生地区
 「味生地区は東側の岩子山、西側の弁天山に挟まれた別府町を中心に、北側に開けた山西、清住、大可賀の各町と南側の空港通、北斎院、南斎院の各町から構成されています。この味生地区には宮前川が流れており、石手にある岩堰で石手川の水を取水するところから始まり、石手寺の前や道後商店街の下を通って松山城の北を西に流れていきます。そしてJR松山駅の近くで南に流れ、さらに銀天街の南を流れる中の川と合流することで西に向きを変え、さらに北に向きを変えて味生地区を通過し、最後は三津浜へ流れていきます。
 かつて、私(Aさん)がこの地にやって来る前の味生地区の景観を、昔から住んでいる人に聞いたことがありますが、東西に山が控え南から北に向けて宮前川が流れる味生の地は、水はけが悪く湿地が多かったそうです。現在の津田中学校の辺りはレンコン畑が広がっていて、他でもレンコン畑が多かったそうです。その湿地を、東西の山を削って埋め立てを行い、水田が広がる場所に変えていったと聞いています。私が就職でこの地に来たときに目にした景色は、水田が広がる味生地区でした。なお、岩子山から出た石や土はトロッコを使用して運搬していたようで、戦前からこの地で暮らしてきた私の義理の母親は国鉄の線路の踏切番をしていたことがあると言っていました。当時は弁天山に沿って海軍の航空基地や港に運搬する線路やトロッコの線路がありました。」
イ 宮前川の治水
 「戦後も味生地区を南北に貫流する宮前川が増水することもありましたが、味生小学校の南から分岐した放水路が昭和59年(1984年)に完成した後は、以前のような大きな水害が発生しなくなりました(写真2-3-2参照)。放水路が完成する前は、山西、別府、大可賀、清住の各町で水害が起きていたのですが、放水路の完成で一部解消されたことを私(Aさん)は憶えています。宮前川による水害はかなり少なくなりましたが、味生地区で宅地化が進んで水田がなくなってしまった現在は、一時的に雨水をためる場所がなくなったために、豪雨があった場合は川まで流れる前に増水する内水氾濫につながる危険が出てきました。」
ウ 宅地化する戦後の味生地区
 「味生地区の景観が劇的に変わっていったきっかけは、西部の沿岸部一帯が工場地帯になったことにあります。北から丸善石油松山製油所、大阪ソーダ松山工場、帝人松山工場の各工場施設が建設、整備されていく中で、従業員の住宅地として味生の土地が求められ、それが契機となって宅地化が急速に進みました。まさに三つの工場の城下町的な役割を担ったのが、現在の山西町から高岡町にかけての一帯だったと思います。宅地化が進む前は松山製油所に勤務する従業員のための社宅が点在していました。
 昭和39年(1964年)の東京オリンピックの後、味生地区で住宅建設ラッシュが始まりますが、それは会社の方が住宅を持つことを奨励したからです。会社の方も、社宅を保有するよりも自宅を持ってもらった方が経費の節減につながりますから、資金を貸し付けたりしていました。私(Aさん)も子どもが小学校に入学するころに自宅を建てました。そのころは周辺に4、5軒くらいしか家が建っておらず、その他は水田が広がっていたので、風が通って涼しかったことを憶えています。」
エ 公民館活動に携わって
 「昭和40年(1965年)に長男が生まれたころから、私(Aさん)は人から誘われて味生地区の公民館の活動に参加するようになりました。味生公民館は平成9年(1997年)に現在の場所に移転しましたが、元は南にある松山市味生支所の建物の中にありました。味生地区には現在、18の分館がありますが、まず私は自分の住まいのある分館の活動や町内会の活動に参加しました。味生公民館内の子どもスポーツ大会や昆虫の勉強会、読み聞かせの会といった活動に携わり、自分の子どもたちが成長した後も味生地区の公民館活動に関わってきました。
 やがて公民館長の補佐をしてほしいと依頼され、その後公民館長も務めました。その間、住民の要望に応じて趣味や勉強の講座を開いたり、分館対抗のスポーツ大会を運営したりしました。ソフトボールやグランドゴルフ、ペタンク等、幅広い年齢層の人が参加する運動会や文化祭も行いました。現在は、特に子どもを対象とするイベントに以前ほど多くの子どもが参加しなくなりました。かつては別府運動広場でソフトボール大会を朝から晩まで開催していましたが、それでは親御さんの負担が大きくなるのと、子どもの希望する種目の多様化によって、今は規模や種目を変えて行っています。
 その代わりに児童館での遊びが盛んになってきました。ボランティア団体が公民館を借りて、月に1度子ども食堂を開くことも行われています。長く地域の活動に関わってきて思うことですが、かつてはお金がなくとも気持ちに余裕があったのですが、今はその両方の余裕がないのか、『生活が厳しいのかな』と感じることがあります。また、若い世代の方もいますが、昭和40年代に一斉に宅地化されて、家庭環境の似た世帯が移住した結果、そのときの働き手の世代が高齢となって住民の平均年齢は上がってきたように思います。
 味生地区は特にこれといった産業はなかったのですが、西部に工場地帯が形成され勤務地に近いことから住宅が多く建てられました。さらに、松山市街にも近いためにスーパーマーケットや病院も近くに立地し、学校も幾つか立地しているために、住みやすくて人気のある地区として現在も多くの住宅が立地しています。私も山西駅から伊予鉄に乗って、中心部にあったデパートや道後にあった動物園に家族を連れて行っていましたし、子育てに便利の良い土地柄だったと思います。振り返ると戦後の味生地区の移り変わりをこの目でじかに見てきましたが、景観は本当に大きく変わっていったと思います。」