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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業24-松山市②-(令和5年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 松山空港と生石地区の生活

(1) 昭和20年代から30年代の生石地区

ア 吉田街道
 「生石地区とは、松山空港周辺の北吉田、南吉田、高岡、久保田、富久の各町のことを指し、生石公民館が立地する高岡町が古くからにぎわっていました。現在の生石小学校や松山市役所の生石支所の前を通る道路は『吉田街道』と呼ばれており、昔からこの通り沿いに家が建ち並んでいました。私(Bさん)は昭和25年(1950年)に生石地区に引っ越してきて、以来70年あまりにわたってこの地の移り変わりを目にしてきました。ところで、吉田街道のことを『空港通り』と呼んでいる人が少なくなく、地元で暮らす私たちはその呼称を聞いて混乱することがあります。『空港通り』とは、昭和40年(1965年)前後に吉田街道の南に造られた産業道路のことで、平成に入ってから、岩子山トンネルと弁天山トンネルを抜けて松山空港に至る『新空港通り』が造られたため、現在は『旧空港通り』の名称でも知られています。昔から人家が多かったのは吉田街道沿いで、南の空港通り付近は一面水田と畑が広がっていました(本稿でも、昭和40年前後に造られた産業道路のことを『空港通り』と表記する)。」
 「空港通りは私(Cさん)が中学生のころから建設が始まり、私たちは最初『産業道路』とも呼んでいました。建設途中でバラスが敷かれた状態の道路を、本当はまだ通行ができなかったのですが、学校の帰り道に通っていたことを憶えています。文字通り物流のための幅の広い一本道で、当時私たちは『こんな大きい道いるの。』と言っていましたが、現在ではもう1車線必要だと思うくらい狭く感じています。敷設される前の空港通りを含め、周囲一帯は全て水田でした。古くからある吉田街道を通る路線バスがあり、それに乗って中心市街に行っていましたが、1時間に1本の割合でしたので、帰りのバスに乗り遅れたときは歩いて帰る方が早かったように思います。」
イ 吉田浜、生石地区の農業
 「子どものころ夏になるとよく海に泳ぎに行っていましたし、お父さんたちが砂浜に監視小屋を作ってくれていたことを私(Bさん)は憶えています。当時は現在の大阪ソーダ松山工場の所から松山空港まで砂浜と松並木が広がっていましたので、絶好の海水浴場だったのです。泳いでいる子どもたちの頭上をプロペラ機が飛んでいたのだと思います。幼稚園児も連れて行ってもらっていたし、小学校の授業でも泳ぎに行っていたと思います。遠浅の海だったのでシャコや貝を採ったことも憶えていて、当時は漁師もいましたが、半農半漁の生活を営んでいたと思います。子どものころ網を引いたことがあり、当時はカタクチイワシをとってイリコにしていました。沿岸部に工場が建ち並ぶまでは、この辺りで会社勤めをする人はほとんどいませんでした。
 終戦後から昭和30年代にかけて、生石地区では稲作とともに海に近い所では畑作が行われていて、米やサツマイモ、野菜というように何でも作っていました。海の近くでは砂地が広がっていましたから、らっきょうが有名だったことを憶えています。他に奈良漬に使われる白ウリも生石地区の特産品でした。垣生山ではミカンが作られていたことを憶えています。垣生山とは、現在の生石公民館の北にある山のことで一般に弁天山と言われていますが、頂ごとに垣生山、権現山と細かく分けて呼んでいます。垣生山ではその後もイヨカンや甘夏柑といった多くの柑橘(かんきつ)が作られていましたが、だんだんとその姿も消えていっています。」
 「松山空港の北側には現在、帝人松山工場や大阪ソーダ松山工場、コスモ石油松山製油所をはじめ大小様々な工場が建っていますが、私(Cさん)が子どものころはそれほど工場も建っておらず、砂浜と松並木が広がっていましたから、夏になると泳ぎに行っていたことを憶えています。砂浜には貝が多くいて、台風が通過した後の砂浜にはクルマエビが打ち上げられていることもありました。大雨の後には、近くの川で上流から流されてきたカニがたくさんとれていました。
 松山空港の南の垣生地区では、今でも漁をしている人がいますが、吉田浜では護岸工事が行われるようになって漁船が陸に接岸することができなくなり、さらに埋め立ての後に工場が建てられたのでこの辺りの風景は大きく変わっていきました。私が小学生になるころ、吉田浜の内側には砂地の畑が広がっていてサツマイモが栽培されていたのですが、その一帯を帝人が用地買収を行って工場を建てていきました。
 私の実家は農業もしていましたし、周りも農業をしていました。小さいころは田を耕すために牛を使っていましたが、私が小学生の低学年のころには牛を使うことはなくなっていきました。昭和30年代に入ると農協が農業機械を購入することを支援するようになり、購入資金を貸したり何軒かの農家で耕運機を購入させて共同利用することを勧めたりして、機械が広まることを後押ししていました。隣の家が馬を飼っていて、私は小学生の低学年のときに乗せてもらったことを憶えています。その馬は戦時中に軍馬として利用されていたものを戦後になって払い下げられたと聞いています。農耕で使うのではなく、その家のおじいさんが乗馬を楽しむために買ったと言っていました。」
ウ 生活に溶け込んでいた松山空港
 「私(Cさん)が子どものころの松山空港は、今のような広大な滑走路を備えた施設ではなく、ジェット機は離着陸せずプロペラ機だけでした。午前1便、午後1便くらいしか飛行機が飛んでいなかったのですが、プロペラ機が着陸すると私たちはそばまで寄って行って写真を撮ったこともあり、翼の下まで行くことができたのを憶えています。松山空港の駐機場で月見をしたり、影踏みをして遊んだり、休日になると近所の子どもたちが集まってドッジボールやソフトボールをしていました。駐機場はいわばグラウンドのようなもので、周辺でこれだけ広い場所がなかったので空港がかっこうの遊び場になっていました。
 松山空港ができる前、その敷地には吉田街道と南の垣生地区や松前町をつなぐ道があり、家や田畑がありました。私は子どものころ、魚を入れたおけを頭の上に載せて売り歩く、松前のおたたさんを見た記憶があります。空港ができたことによって、家と田畑が隔てられたり行き来が途切れてしまったりしたので、空港には遮断機が置かれていました。飛行機が離着陸していないときは農家の人が滑走路を歩いて渡ることができていて、『遮断機のある空港』として全国的に知られていました。やがて滑走路の地下を通る隧(ずい)道が完成し、それは現在もあって出入口付近には公園が整備されていて、農作業や通勤の道として利用されています(写真2-3-3参照)。
 私の実家は農業を営んでいて、畑が現在の隧道の上と駐機場の辺りにありました。昭和30年代の後半から空港が拡張されることで用地買収の対象となり、買収の際、私の祖父のみが飛行機に乗せてもらうことになって、松山市上空の記念飛行に行っていたことを憶えています。」
 「子どものころは松山空港が遊び場だったことを私(Bさん)は憶えています。当時は飛行機が頻繁に離着陸するものではなかったので、着陸の時間が近づいてくると『空港で遊んでいる子どもさん、飛行機が降りてくるからどいてください。』と、管制塔からか上方からか放送で大きな声がしていました。私たちがそれでも聞こえないふりをして遊んでいると、黄色の車がやって来て『嬢ちゃんたち、どいてよ。』と係の人から呼び掛けられ、それで初めて滑走路から出るような、とても悠長な時間を過ごしていました。
 冬になると滑走路にむしろ(・・・)を敷き、その上にミカンの皮をたくさん並べて干していたことを憶えています。ミカンの皮は油分が多く、薪を焚(た)くときの焚き付けの燃料として利用されていました。ミカンを干している横で私たちは遊んでいましたから、松山空港は生活の場として利用されていたのです。私が小学校に通っている間、ずっとそのような様子だったと思います。昭和30年代の後半になると、飛行機の便数も増えて空港が拡張されるにしたがって入ることが制限されるようになり、昭和41年(1966年)に起きた墜落事故以降は完全に入ることができなくなったと思います。」

(2) 空港通りの誕生

ア 工業地帯への変化
 「昭和30年代に入ってから、この辺りの景色は大きく変わっていきました。その理由は、大阪ソーダ松山工場や帝人松山工場が建てられていったことにあります。帝人は松山工場の建設に先駆けて事業所を置いていました。私(Bさん)が今でも憶えていることは、当時通っていた生石小学校の6年生のときに書いた作文の中で、『全校児童数がそれまで600人くらいだったのが、5年生のときに800人を超える児童数になった。』と書いたことで、事業所の開設に伴って従業員とその家族が一斉にこの地に引っ越してきたことによるものでした。校舎が足らなくなったので、急きょ木造の校舎が建てられました。印象に残っていることとして、引っ越してきた人の話し方がこちらと大きく異なっていたことが挙げられます。その後も松山工場と社宅が建設されることによってこの辺りの風景は一変し、私たちが『大川』と呼んでいた堂之元川は帝人の敷地に沿う形で付け替えられました(写真2-3-4参照)。」
 「私(Cさん)が小学4年生のとき、クラスでは以前から住んでいた子どもと帝人に勤めている家庭の子どもの割合が半々であったことを憶えています。引っ越してきた家庭は大阪や岡山、広島にあった帝人の工場から来ていて、九州出身だという子もいましたから様々でした。実際に工場が完成したのは昭和35年(1960年)ころでしたが、現在の松山空港の駐車場一帯は全て帝人の社宅でした。役職に応じて社宅の形状が異なっていたようで、『赤屋根さん』『青屋根さん』『黒屋根さん』と私たちが呼んでいた一戸建ての住宅もあれば、2階建てのアパートや4階建てのアパートが建っていました。
 松山空港も、幾つかの段階を経て敷地を拡大させ、滑走路が延伸していきました。このため、生石地区の鯛崎から垣生地区をつなぐ直線の道路が滑走路によって分断されて、う回しないといけなくなりました。なので、垣生から生石へお嫁に来ていた人が簡単に実家に行くことができなくなったということもありました。現在まで、松山空港周辺では新しい道路が造られていきましたが、一見便利になったように見えても昔から暮らしている人にとっては車の交通量も増えて、落ち着いて外歩きできなくなったことも事実です。」
イ 空港通りの敷設と周辺地区の開発
 「昭和41年(1966年)に私(Cさん)は就職し、空港通り沿いにある建設機具メーカーの事業所に勤めました。そのころには、通り沿いに大企業の事業所や倉庫が建ち並んでいましたので、短期間で空港通りと沿道の開発が進んでいたと思います(写真2-3-5参照)。後になって通り沿いにスーパーマーケットやコンビニエンスストアが建つようになりました。私が高校生のころは路線バスに乗って中心部の高校に通っていましたが、そのときバスは吉田街道を通っていました。空港通りを路線バスが走るようになるのはずっと後のことだったと記憶しています。
 昭和40年代、空港通りの敷設と通り沿いの開発が進むと、周辺の農地が住宅地へと変わっていきました。そのほとんどは帝人に勤務する人向けのもので、当時は帝人系列の会社が宅地開発を担っていました。」
 「戦後の丸善石油松山製油所の操業再開から始まって、松山市は積極的に沿岸部に企業を誘致していて、農業地域が工業地域に変化していきました。昭和30年代の後半に空港通りの建設が始まりますが、そのころは帝人松山工場が本格的に稼働し始めた時期に当たり、工場従業員とその家族がさらに引っ越して来ました。そのころから帝人で働く人たちが社宅ではなく住宅を求めるようになり、吉田街道から南に広がる高岡町や久保田町の農地が宅地へと変貌していきました。高岡町と久保田町の間を空港通りが通っていますから、通り沿いに企業の事務所や商店が並び、そして住宅地が広がっていったのです。その結果、この辺りでは帝人に関わりのある住民が大多数となり、『帝人と関わりがない住民を探す方が大変だ。』と言って笑い話になっていたことを私(Bさん)は憶えています。」
ウ 拡張されていく松山空港
   (ア)松山沖墜落事故
「昭和41年(1966年)11月13日夜、松山空港に着陸しようとした全日空の旅客機が空港西方の海に墜落する事故がありました。私(Bさん)はそのころ、三津浜で働いていて勤務先は船舶の燃料を卸していました。海上保安庁の船にも燃料を卸していて、当時は海上保安庁の敷地にも遺体が安置されていたことを憶えています。」
「私(Cさん)の実家は吉田街道の西側の南吉田地区にあり、そのころは海岸まで目立った建物もなかったので家から海を見ることができていました。墜落事故が起きたとき、大きな物音もしなかったので、墜落したことはテレビのニュースで知り、その後で海の方を見ると車がたくさん停車していて、テールランプの赤い光がそこら中で光っていたことを憶えています。当時、飛行機の着陸は夜の7時過ぎが最終で、事故はその時間を過ぎていたことを憶えています。この事故がきっかけとなって松山空港の滑走路は延伸されるようになり、やがて大型の飛行機が離着陸し始め、最終の着陸時間も遅くなっていって、今は遅いときは10時近くなるときがあります。」
(イ)空港のある生活
 「松山空港のそばで暮らしていますから、離着陸時には大きな音がしています。空港が拡張されてジェット機が離着陸するようになったころ、空港会社の方から家の防音対策をしてもらったり、エアコンを部屋ごとに設置してもらったりしました。エアコンについては10年に1度買い換えてもらっていました。この措置は松山空港のそばで元から暮らしている家に対してなされたもので、拡張された後で建てられた家にはなされませんでした。また、対策をしてもらえる範囲が定められていたので、範囲から外側の家は自分たちで対策をするしかありませんでした。
 地元で暮らす私(Cさん)たちは大きな音に慣れていますが、よそから来た人はびっくりすると思います。夫の母親が家に来たとき、2階で昼寝をしているところにジェット機の離着陸があってその大きな音に驚いて、『あの音は何。』と2階から駆け下りてきたことがあります。南吉田の公民館では、毎年松山市が騒音の音量を計測しています。それを基に、規定を超える音が出ていた場合には対策を求めることができていますが、規定値を下回っているのであれば音を受け入れて生活する必要があります。
松山空港の方でも、周辺住民に空港の仕事を理解してもらうことを目的とした見学会や周辺住民に依頼して松山空港に到着した客を出迎えるイベントが企画されています。例えば夏の時期、飛行機が離着陸する前の早朝に空港の駐機場を歩いて見学する行事が行われています。また、毎年12月になると空港内で餅つきをして餅を配る行事が行われています。『餅をつく』と『無事に着く』を掛けてやっているのですが、その他にも獅子舞を披露することもやっています。現在はコロナ禍の影響で3年ほど実施していませんが、松山空港周辺の南吉田地区の住民が中心となってやっています。」
「この辺りは工業地帯になって60年近くの年月がたちました。飛行機の音だけではなく工場のモーター音もしていますし、交通量も多いために車の騒音も聞こえます。どうしてもそれらの騒音の中で暮らす必要がありますので、一定の騒音は受け入れてきましたが、よそから来た人はこの騒音に驚いています。
昔から暮らしている私(Bさん)たちにとって、松山空港のジェット機の音も離着陸の時に大きくなるだけで四六時中ではありませんので、『今日は風が強いからこちらから飛んでる、着陸してる』と思うくらいで慣れてしまえばあまり気になることはありません。『住めば都』の言葉がありますが、中心市街から程よく離れた場所にあって利便性が高い生石地区は暮らしやすい場所だと思っています。」