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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業25-内子町-(令和5年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 成留屋の町おこし活動、大江健三郎の記憶

(1) 町並みの変化

 「私(Cさん)は高校へ進学するときに成留屋を離れ、その後大学進学と郵便局への就職を経て昭和61年(1986年)に成留屋へ帰ってきました。そのとき、通りの様子を見て『さっぱりしたな』と思いました。それだけ店が少なくなっていたのです。ちょうどそのころ、国道379号内子東バイパスが開通し、それまで成留屋を通っていた人の流れがバイパスへと移り変わり、通りで買い物する人の数が少なくなっていたのです。さらに、路線バスの便数も減っていました。」
 「昭和40年代以降、各家庭が自家用車を持つようになると、内子中心部や松山市に買い物に出る人も増えるようになりましたが、成留屋の生活が一変するようになったのは、やはり対岸にできた内子東バイパスだったと私(Eさん)は思います(写真1-1-2参照)。バイパスの完成によって人の流れが変わり、成留屋から店がなくなっていく契機となりました。そのころ、私は内子町職員として大瀬公民館に勤務していたのですが、地域の人たちと『あれができるのはいけんのじゃないか。』などと言っていました。確かに便利にはなったのですが、成留屋の景色ががらりと変わってしまったのです。それまで周辺の集落と内子中心部との行き来で、必ず成留屋を通っていた人の流れがなくなってしまいました。」

(2) 成留屋の町おこし活動

ア 大瀬・村の会

「昭和の終わりころ、私(Dさん)は自治会の役員をしていた関係で、地域づくり推進委員会の委員長を務めていました。そのころは、内子東バイパスの建設のために小田川の対岸にあった南側の斜面がどんどん削られ、コンクリートの擁壁が築かれていくさなかであり、『ちょっと、あれは山が壊されすぎではないかな。』と地域の人と話し合ったりしていた時期です。
そのころ、NHK教育テレビで著名人が母校を訪ねて講演をする番組があり、大江健三郎さんが大瀬中学校にやって来ることになりました(昭和63年〔1988年〕放送)。講演と番組の収録のために成留屋に帰省していた大江さんの下に、私は『大瀬の住民に向けた講演会をしてほしい。』とお願いに行きました。当時は大江さんの兄である大江昭太郎さんが御健在であり、昭太郎さんが事前に話をしてくれていました。大江さんは承諾してくださり、『講演会だけではつまらないから、私が音楽家を連れてきましょう。』と提案してくれました。
こうして講演会と音楽会が行われる運びとなったのですが、私一人で準備を進めていくことは無理だと考え、成留屋の住民に協力を呼び掛けました。こうして結成されたのが、『大瀬・村の会』です。そして、翌年の平成元年(1989年)に講演会と音楽会を実施することができたのです。講演会と音楽会は5年間続きましたが、ちょうど大江さんがノーベル文学賞を受賞するのではないかと毎年話題になっていた時期であり、会が開かれる時期と賞の発表時期が重なっていたため多くのマスコミが集まり、その対応で大変でした。受賞が最も有力視された平成4年(1992年)のときには電話線がパンクしてしまい、大瀬小学校の運動場に広島県からパラボラアンテナを持ってきて対応したことを憶えています。
 『大瀬・村の会』は、その他にもバイパス沿いに桜やケヤキを植樹する活動も行いました。私たちは大瀬地区や成留屋に多くの人を集めたいというよりも、昔からの大瀬らしい風景を残していくことを目指していました。かつての大瀬村役場の建物が取り壊される計画が立ったときに、建物を引き取ったのも私たちの活動によるものでした。現在は『大瀬の館』となって宿泊施設としても利用されています。大江健三郎さんの講演会と音楽会は大きな催し物でしたが、その他に大規模なイベントを計画することはなく、日常生活の中で地道に成留屋と大瀬の昔ながらの姿を残していこうと努力してきました。」
 「私(Eさん)は、徳森さんの呼び掛けに応じて『大瀬・村の会』に参加した一人です。そのころは成留屋で大江健三郎さんのお母さんも御健在で、大江さんも1年に1度帰省されていました。平成元年(1989年)から5年間、毎年大江さんが音楽家を連れてきてくれて大瀬小学校の体育館で講演会と音楽会を開いてくれました。『今年こそ大江健三郎がノーベル文学賞を受賞するのではないか。』と話題になっていたころですから、マスコミの注目も相当なものでした。フジテレビやTBS、日本テレビといった全国ネットの放送局の本社から取材の車がやって来て小学校の運動場にアンテナを立てていましたから大変な騒ぎになっていました。
平成4年(1992年)の講演会と音楽会のときは、最も受賞が有力視されていた年であり、そのときはわざわざ文学賞の発表日に会を開催しました。夜に開かれる講演会・音楽会で、ちょうど文学賞の発表の時間にも重なっていました。そのときのテレビ局と新聞社の集まりようは相当なものでしたから、受賞した場合に備えて人を雇って会場を整理していました。残念ながらその年は受賞にならなかったのですが、500人ほど集まった参加者も今か今かと知らせを待っていたので、『誰かが知らせないといけない。』ということになり、結局、愛媛新聞社の大洲支局長が参加者に知らせ、ようやくみんなが帰っていったこと憶えています。講演会・音楽会は翌平成5年(1993年)まで開催されましたが、その会が終わった次の年の平成6年(1994年)に大江さんはノーベル文学賞を受賞しました。
 『大瀬・村の会』の活動がきっかけとなって、例えば成留屋の上流に位置する川登地区では、昭和初期まで行われていた筏流しを年に1回再現する行事が行われていますし、同じ内子町内の石畳地区でも町おこしの活動が続いていて、旧内子町内の各地で同様の取組がなされてそれぞれが連絡を取り合って活動を継続するようになりました。現在の成留屋は静かな通りとなりましたが、平成10年代に行政の方で町並みの外観を整える事業が行われたこともあって、落ち着いた感じを今に残しています(写真1-1-3参照)。」

イ 大江健三郎さんの思い出

 「成留屋の南側の町並みの裏に小田川が流れていますが、現在のような堤防が築かれる前は、家の一部が川の方にせり出しそれを柱で支える懸造(かけづくり)になっていて、その下を小田川が流れていました。そのため、小田川が増水すると水につかることがたびたびありました。内子東バイパスができるまで、小田川の南の斜面地は川のそばまでに迫っていました。この斜面地を上がっていくと途中にため池があって、傍らにカキの木が1本立っているのですが、そこからは成留屋の町並みが一望できます。大江健三郎さんの実家は町並みの南の並びにありましたので、少年時代、大水が出るたびにため池の所まで上って成留屋の町の様子を見ていたと私(Eさん)は聞いています。そこから見ると、山の中にぽつんと開けた成留屋の様子がよく分かるので、成留屋を収めた写真はよくそこで撮られています(写真1-1-4参照)。
斜面の下には道が1本あって、昭和30年(1955年)に移転した大瀬中学校につながっていましたが、その道沿いには家が数軒建っていたくらいです。現在、成留屋の西側に橋が架かり、交差点を経由してバイパスとつながる道路が造られ主要道として利用されていますが、この道はバイパスと同じ時期に造られたもので、かつて川向うに行くために利用していたのは大瀬自治センターの南にある成留屋橋だったことになります。」

(3) 大瀬のさと並みとともに

ア 大瀬地区の課題

「成留屋の町にも空き家が見られるようになりました。ただ、持ち主の方は家を貸したり売ったりしないので、空き家になったままです。景観を守るためにも家を残していきたいのですが、古くなってしまうと安全性の面から取り壊さないといけなくなるので、それは避けたいなと私(Dさん)は思います。」
「空き家の問題は成留屋だけでなく、周りの山間部でも起きています。危険になってから取り壊すのではなく、有効に活用できれば良いと私(Fさん)は考えています。最近では、成留屋に移住した人に家を貸した事例が一つありました。全国には大江健三郎さんのファンや研究者の方もいますので、大瀬地区を訪れる人は少なくありませんし、中には移住を希望する人もいるのですが、貸すことのできる住宅がないのが現状です。貸出可能な住宅がなかったり、あったとしても住居の状態が悪化していたりしています。同様の事例は内子町内の他地域でも見られていて、移住を希望する人と提供可能な住宅がうまく適合する事例が少ないのが実情です。」
「内子町の方でも移住希望者に対して『お試し移住』といった取組を行っています。町が用意した住宅に入り、しばらく内子町での生活を経験して、条件が合えば希望する町内の各地域に移住するもので、何件か申込みが来ているので、その流れが加速できれば良いと私(Eさん)は思います。大瀬地区でも移住の事例が増えることを願っていますが、町内の他地域ほど数が増えていません。」

イ 大瀬らしさを残す

「かつて大瀬村役場だった森林組合の事務所を、取り壊す計画を止めて大瀬地区で引き取ることを話し合っていたころ、あの建物を大瀬地区全体の集会所として、大瀬地区の心のよりどころとして活用していこうという話し合いをしていたことを私(Eさん)は憶えています。当時の内子町に陳情に行くとき、大瀬地区内の各集落が個々に訴えるのではなく大瀬地区全体で意見をまとめて訴えていこう、その寄り合いの場として活用しようというものでした。昔は、この辺りで財産のある人といえば山持ちの人でした。だから大瀬地区には財産持ちの人が多く、昭和30年(1955年)に合併したときの初代内子町長は大瀬地区出身の方でした。このことは旧内子町の中で大瀬地区は土地面積も広かったのですが、財力も大きかったことを示しています。大瀬地区のまとまりは強く、独自の気風も強かったと思います。その大瀬らしさを残していけたらと私は願っています。」
「昭和30年(1955年)の合併のとき私(Dさん)は幼子ですが、もし若手として地域を支える年齢になっていたら、合併に反対していたと思います。それくらい大瀬地区独自の精神というか気概がありました。やはり合併してしまうとその地域の中心地が寂れていってしまいます。どんなに小さくとも町として残っていた方が良かったのではないかと思うことがあります。」

ウ 戦前の記憶

 「私(Bさん)は、小学校は地元の川登の小学校に通い、高等科1年と2年は大瀬の町の学校に通いました。次の年に新しい教育制度に変わったので、私は新制中学校の3年生となりました。そのとき1年生で入学してきたのが大江健三郎さんの世代でした。
子どものころ、材木を筏に組んで小田川の上流から下流に流して運搬していた光景を見た記憶があります。川の水量が十分にあるときはそのまま流していましたが、水量が少ないときは所々に堰(せき)を設けて、いざ流すときになったら水門を開け、その水流で流していました。時には川べりに積んでいた材木が流されて河口まで行ってしまっていたこともあったようです。私が二十歳のころまでは行われていたように記憶しています。昭和30年代に入ると車による輸送に変わっていきました。私が生まれた川登地区では、筏は川ではなく、伐採した場所で組んでいたように思います。
戦争中は防空壕(ごう)も自分たちで作りましたが、入ったことはありません。『どうせ爆弾が落ちないだろう。』などと話していました。」
 「私(Aさん)は大瀬の尋常小学校に通い、その学校が国民学校に変わり、さらに国民学校の高等科に進んだ世代ですが、戦時中は竹やりの訓練を必死に行ったことを憶えています。『こんなことで勝てるのだろうか』と疑問に思ったこともありました。戦争の末期になると米軍の戦闘機の編隊が大瀬の上空を飛んで通り過ぎることがありました。空襲警報もしょっちゅう鳴りましたが、そのころの大瀬村に爆弾が落ちたということはありませんでした。」


参考文献
・ 内子町『内子町誌』1995
・ 内子町『むらの移り変わり写真集』2004
・ 大瀬自治会『大瀬・くらしのこみち』2012
・ 内子町『内子町誌 うちこ時草紙 Ⅱ民俗編』2018
・ 内子町『内子町誌 うちこ時草紙 Ⅲ歴史編』2019


写真1-1-2 成留屋橋から内子東バイパスを望む

写真1-1-2 成留屋橋から内子東バイパスを望む

内子町              令和5年10月撮影

写真1-1-3 外観が整備された成留屋の町並み

写真1-1-3 外観が整備された成留屋の町並み

内子町              令和5年4月撮影

写真1-1-4 小田川南斜面より成留屋を写す

写真1-1-4 小田川南斜面より成留屋を写す

内子町                  令和5年10月撮影