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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業25-内子町-(令和5年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 竹産業とともに

 (1) 竹産業

  ア 手箕の生産

 「私(Bさん)の父が山田竹材を創業したのが、昭和30年(1955年)のことでした。もともとは農業をしながら、乳牛を飼って、酪農をしていました。最盛期には牛が5頭くらいいたのではないかと思います。ところが、農業だけでは現金収入がないために、戦時中に町内の妙見町にあった橋本竹材店という大きな竹屋で修業に入りました。職人として何とか技術を身に付けようとしたのではないかと思います。農業や酪農をしながら竹細工をしていましたが、戦後10年たって日本の経済が成長して竹の注文が多くなり、独立した方が良いということで、山田竹材を創業しました。
 米作りはその後も続けていますが、生業は竹細工であると指針を決め、人を雇いだしてからは酪農はやめ、牛小屋を改築して仕事場にして本格的にするようになりました。私がまだ小さいころの昭和30年代の後半になってからのことです。おそらく作業場はしばらくは臭かったのではないかと思います。
 もともと八幡浜(やわたはま)の夏柑籠(かご)の依頼があって、作っていたそうです。それで、六ツ目編みの籠を作っていたのですが、段ボールやコンテナが出てきて、もう竹は必要ないとなりました。それはコストが掛かり高価だということと、かさばるためです、段ボールだったら組み立てるまではかさばりません。
 そのため、主力が手箕(てみ)に変わりました。手箕と熊手、竹ぼうきも並行してやっていました。私の小さいころは父と母を含めて常時10人くらいで仕事をしていました。また、外注もあり、内職をする人に材料を準備して作ってもらっていました。軽トラックなどはないので、皮を剝いだ竹ひごなど材料を丸めて持って行って、それで出来たらリヤカーで持って帰っていたことを憶えています。そういうことをしながら生産力を上げていき、その当時は1か月に1万個くらい製造していたと思います。
 作業は分業になっていました。父は竹細工の職人だったので、ひご剝ぎをして材料を作っていきます。父のほかにももう一人ひご剝ぎを補助する人がいて、元となる竹骨を作る人がいました。それで編んでいくわけですが、編むのは女性が多く、延々と編んでいました。編んだ後は、竹を割ってカーブのある縁(ふち)の部分を作る人や、縁だけを針金で縛って仕上げる人などが作業をします。私も子どものころに手伝わされていましたが、スラシという、手箕の背中の部分に補強のために差し込む骨を背中のカーブに合わせて曲げて刺すのですが、そのスラシを入れる作業をよくしていました。また中学生くらいになるとスラシを削る作業なども手伝っていたことを憶えています。
 ところが、昭和45年(1970年)ころからポリエチレン製のものが登場すると、どんどん受注が減っていき、化学製品へと変わりました。化学製品の良いところは虫が入らない、腐らないことですが、紫外線には弱いので日に当てない限り長持ちします。竹はどうしても自然素材ですから虫が入ったり朽ちていくので耐用年数は短いですが、強靭(じん)でしなりがあるという長所もあります。そういった長所、短所がどちらにしてもありますが、昔はそのような自然素材でものつくりをしていました。竹製品は今では工芸品であり、編んだり、割いたり、剝いだりすることをできる人がいなくなりました。ましてそういった作業は機械ではできません。
 また、昭和の終わりころになると、さらに注文が減りだしました。価格は安かったのですが、それでも決まった数だけ毎年注文があった小さな熊手などの縁起物も急に注文がなくなりました(写真2-1-4参照)。おかしいなと思っていたら、安いものが中国から輸入されていたようでした。それで考えなければならないなということで、昭和60年(1985年)ころに手箕や熊手の生産を打ち切って、建築・造園用竹材へと切り替えました。」

  イ ひご剝ぎ

 「竹は筒になっており、まずは縦に割っていきます。一度に割る菊割りという方法もありますが、そうではなかったら半分に割って、さらに半分に割ってという形で適当な幅にそろえていきます。それで皮目のところを、包丁を入れて割いたものをひごといいます。これは熟練していないと、竹の節のところで厚さが変わってしまいますので、主に私(Bさん)の父が担当していました。単純な作業ですが、これがないと製品ができません。
 手箕を生産していたころ、ひご剝ぎは両刃の包丁で行っていました。剝ぐときは包丁を手前に持ってきて、剝いだものは向こうに行きますが、片刃の物は一方の方向に向かってそのまま切れていくので、固定して剝いでいくと多く剝げます。ただ、剝いでしまった方はもう使えません。一方両刃の物は、均等にまっすぐ持っていくと、きれいに半分に割れます。大体は皮が付いたところを使うのですが、内身(うちみ)と言う皮が付いていないところも使っていたので、両方のところを使うために両刃を使っていました。ただ、半分に割れるといっても竹には節があるので節のところからはなかなかうまく割れません。それを上手にやるために、竹を足の指で挟んで固定して行います。そのため冬でも素足で作業をしていました。最初に切り口を入れるときは良いのですが、それからトントンとやって剝いでいくときに、結局両方を同じ力で持っていかないと、均等になりません。剝いでいくとだんだん長くなるので、足の親指と人差し指で固定しながら剝いでいました。長い方が使い勝手が良いので、3mから4mの長さのひごを作っていました。
 手箕には総皮、半皮と種類がありました。総皮というのは、皮の付いたひごを使って作った手箕で、半皮と言うのは皮の付いていないひごも使った手箕です。総皮の方が、丈夫なので、少し高いのですが、安く使いたいという要望があるので、負荷の掛かるところは皮を使い、半分くらいは内身で作った手箕も生産していました。
 自然のものは規格がばらばらで、竹でも素材によって全然違います。太さが一緒でも、節と節との間の長さが違っていたり、曲がっていたり、土壌の性質によっても粘りや硬さといった竹の性質が変わります。私たちは竹を伐(き)る前にこの竹藪(やぶ)はどうかなと、見ると大体分かりますが、普通は加工しないと分かりません。やはり従事している年月、経験で分かるようになるのです。」

  ウ 建築資材への転換

 「住宅の土壁の内部には、それを塗り止める骨格に竹が使われており、この壁下地の竹を小舞(こまい)竹と言います。小舞竹は、かつては左官がある程度の長さの丸竹をトラックに積んで持っていき、現場で割って節を落としていました。昭和50年代の住宅建設が盛んなころ、小舞竹を機械で割って、寸法をそろえて販売しているところがあるという話を聞いて、私(Bさん)のところでもやってみようとしたのです。ただ、昔気質(かたぎ)の人は固定観念があり、従来のやり方で十分と考えるので、良いものは良いと分かってもらえるまでには時間が掛かりました。中には機械で割って、節を落とすとスピードも速く、自分でやるよりも楽で、その分他の仕事ができるので、加工賃が必要ですが少し高くても使ってみようという人もいたので、だんだんと導入してもらえるようになりました。
 機械は竹割機と竹剝ぎ機を八幡浜市内の鉄工所に依頼して作ってもらい、昭和54年(1979年)に小舞竹の販売を始めました。機械といってもワンメイクの物なので、様々なアイデアを出して、無の状態から作り上げていった機械です。鉄工所と相談しながら、試行錯誤で作り、出来上がっても調子が出るまで相当に時間が掛かっていました(写真2-1-5参照)。それまでも時代の変化の中で機械を導入することもありました。例えば竹をビニールバンドでこん包をする機械があります。昔は手で縛っていたのですが、毎日こん包するため手が痛くなるので購入しました。今あるものは何代目かで、ストラパックという会社の製品なのですが、以前に営業の方が『山田さんのところにあるこん包機は創業当時のものです。これはもう我が社の展示室に置いておいた方が良いので。』と言っていたので、黎明期から購入していたもののようです。
 ものづくりの精神が昭和時代には旺盛だったのだと思います。生産力を上げるために、アイデアを形にして製作していくというのはその時代の重要なポイントだったのではないでしょうか。今もそうかもしれませんが、コンピュータで制御するように切り替わったので、アナログ方式の機械というのは逆に珍しいと思います。
 昭和50年代以降、松山の古川や石井では、水田や畑だけだったのがどんどん住宅地に変わっていきました。住宅がどんどん建設されて、そのため建材として竹も相当に必要でした。生産が間に合わないくらいで、たくさん人を雇って、毎日山へ伐った竹をトラックで取りに行き、工場で加工してという毎日でした。春から夏にかけて、竹は虫が入りやすく伐るのに適した時期ではないのですが、注文に間に合わないので、悪い時期のものは薬品をつけて、防虫加工をし、出荷していました。
 ハウスメーカーが昭和の末期から出てきて、私たちも危機感はあったのですが、まだまだ先のことだと考えていると、平成に入るころには様子が完全に変化していきました。土壁の下地には竹が必要だったのですが、今やほとんど土壁の家は建てられなくなりました。竹産業もなくなってくると、なくしてはならないと言われますがそれは理想論です。内子の町並み保存地区ではそのような建築様式なので、『竹を用意しておいてください。』と言われるのですが、いつ使われるのかも分からないものを準備しておくわけにはいきません。竹は自然のもので、生ものなので、当然朽ちていきます。いくら保管しておくといっても、備蓄するための設備や経費が掛かります。」

  エ 造園業用製品の生産

 「竹は、粘りがあって弾力性があるので、土壁の材料のほか、造園業界でも庭木の支柱や竹垣などに使われます。私(Bさん)のところで、造園用の製品が一番売れたのは昭和の終わりころです。そのころに高速道路が四国にも建設されていき、昭和63年(1988年)ころに瀬戸中央自動車道が開通しますが、最初に四国に高速道路ができたのが、三島川之江ICから土居ICの10㎞ほどの区間でした。その後、香川県の方が早く整備されますが、それは香川県には山がなく盛り土で済んだためです。大野原(おおのはら)から、善通寺(ぜんつうじ)、丸亀(まるがめ)くらいまでが早い期間に完成したのですが、それに伴って盛り土ののり面に木を植えたり、パーキングエリアやサービスエリアに植栽を整備していったりしました。そのため樹木の支柱だけでも相当に必要だったので、私のところからもかなりの量を持っていきました。
 竹にはいろいろな種類があって、造園業や建築に使うのはほとんど真竹(まだけ)です。真竹が一番加工しやすく、粘りがあって、耐久性があるためです。似た竹に淡竹(はちく)があって、真竹に似ているのですが、粘りがないので、外で日に長い間当たっていると干割れし、割れるとそこから雨水が入っていき、腐っていきやすくなります。そういう理由で淡竹は造園用の竹材として好まれないのです。淡竹の仲間に虎斑竹(とらふだけ)という表面に虎皮状の模様が入っている竹もありますが、淡竹も虎斑竹も高知県に多く分布している竹です。一方、真竹が多いのは大洲市や喜多郡なので、高速道路の整備のための竹として多量に出荷されました。
 真竹はうちわの骨や傘の骨用としても優れています。丸亀ではうちわの生産が盛んですが、うちわの竹は伊予の竹といって、私のところでも平成の中ころまでは丸亀に出荷していました。昔は筏で長浜まで流していき、船で丸亀まで運んで行ったそうですが、道路が整備されてからは陸路で運搬するようになりました。香川県は自生する竹が少ないので愛媛県産のものに頼っていたということです。
 大洲市、喜多郡は真竹の産地ということで、熊手の産業も盛んでしたし、竹細工なども盛んでした。竹細工として、花籠などの生産も行われていました。松山でも花籠生産が盛んで、私も卸していました。この辺りでも農閑期に花籠を作っている人が結構いました。冬場の仕事だったわけです。紙漉(す)きも同様で、この柿原地区でも私が子どものころは3軒くらいあり、農閑期の仕事として盛んに行われていましたが、生業としては通年行う仕事の方が無駄もないということでやめていきました。」

  オ 竹の運搬

 「私(Bさん)は昭和34年(1959年)の生まれですが、社会は大きく変わったと感じます。変わった点の一つに車社会になったということが挙げられると思います。私が子どものころには車が家庭にないので、鉄道やバスを利用していました。今では鉄道やバスに乗ることもなくなっており、路線がなくなるのは仕方がありません。それで公共交通機関がなくなると、田舎で住めなくなるということが現実になっています。
 かつては竹材を山から運搬するのも本当に大変でした。車の入る道がなかったので、道まで運ぶために、ワイヤーを張って、索道でつるして降ろしていました。索道はとても危険で、私の同級生の父親も作業中の事故で亡くなった人がいます。ワイヤーが劣化したり、金属疲労を起こしたりして切れることもありますし、欲を出して、多く積みすぎて、ワイヤーがたるんだり耐えきれなくなったりすると切れるのです。切れたら、すごいスピードで向かってくるので、当たると即死です。そのようにして何人もの人が亡くなっています。
 現在は林道が通っていますし、林道がないところではどんどん作業道を付けて伐採します。森林組合などが伐採したり、間伐したりするときには、伐った木材を出すために地権者の許可を得て作業道を付けるのですが、出した後はそのままです。そのために災害が起こることもあります。アリの巣のように作業道を一杯作ると、山に雨といを置いたような状態になり、雨が一気に本流に集まることになるからです。昔はそれがなかったので、じわじわと沢の方から来たり、伏流水が少しずつ流れ出したりして、山に保水力がありました。
 私のところでは、始めは近くの運送店に竹材運搬を任せていたのですが、昭和47年(1972年)に自営用2tトラックを購入し、自力で運送を始めました。私も休みのときには手伝いに駆り出されました。竹は規格に合わせて束にしますが、大体一束の重さが30㎏から50㎏はありました。中学生のころの私はトラックの荷台で竹の束を並べていたのですが、とても大変だったことを憶えています。最終的にはトラックの屋根のはるか高くまで竹を積み上げました。
 そのころにはまだ林道はほとんど舗装されていなかったので、雨の後になると道がぬかるんでいて、どこを走ったら良いのか分からないという感じでした。また、石が露出していることもあったので、パンクもよくしていました。夏には路側帯に草が生えているので、草に隠れた石があり、対向車を避けようと車を寄せると、パンクをするということがたびたびありました。そもそも林道は掘り切ったり、削岩したりして作っているので、山側の路肩には切れてとがった石があることもあり、タイヤの横をとがった石でこするとすぐにパンクします。荷物を満載していたりするともう大変で、ジャッキで上げようとしても上がらず、ずるずると埋まってしまいます。そうなるととにかく大変で、携帯電話もないので、ひたすら民家を探して、歩いて行き、それで電話がつながってもすぐに助けに来てくれるわけでもありません。今は時間をお金で買うような時代ですが、当時は時間をお金で買いたいと思っても、買えませんでした。そのため、途方に暮れながらも何とか自力で脱出したり、じっと我慢して待ったりしなければなりませんでした。だから、皆我慢強かったのではないかと思いますが、人間というものは楽を憶えたらもう無理です。
 現在、経済の中で竹産業は完全になくなりました。私も残務を片付け、だんだんとフェードアウトしようとしていますが、駄目になりつつあるところで、コロナ禍でさっぱりになりました。それで4tトラックを去年廃車にしました。毎年税金と車検費用が掛かり、現在では性能が上がったので、車検も毎年必要なのか疑問に思うのですが、使用しても使用しなくても23万円くらい必要です。昔のように毎日のように使うのだったら、当然なくてはならない必要な戦力として、すぐに元をとれます。ただ近年使用頻度が極端に少なくなってしまいました。相談をするとリースで借りたらどうかと言われたのですが、それも借りたり返したりと大変です。それならもうフェードアウトするしかないという感じです。」

  カ 竹伐りさん

 「昭和のころは竹産業が盛んで、それに伴って、山の管理ができていました。私(Bさん)のところでも最盛期には常時20人くらい山で竹を伐って、私のところに納入する人がいて、竹の伐る時期が悪くても一年中伐採し、需要に応えていました。そのくらい竹の用途があったわけです。竹を納めてくれる人を『竹伐りさん』と言いましたが、竹伐りさんには竹材搬出の場で、代金を現金で支払っていました。そのため、とにかくお金が必要なときはみんな必死で電話を掛けてきていました。
 私が竹の仕事をしていたときには、今年はどのくらい伐採して、卸がどのくらい、小売がどのくらい、どこにどれだけと、前年と同じくらいの計画で毎年行っていました。ところが、平成の途中から来年のことが全く見えない、いつ注文が途切れるか分からないという恐れを感じながら仕事をするようになりました。さらにそれと同時に新たに従事する人がいなくなってきました。夏暑いときに暑い中で仕事をするのが嫌だと感じる人が増えてきたのではないかと思います。」

  キ 様々に使われた竹

   (ア) 牛鬼の材料

 「私(Bさん)のところでは伊方(いかた)町の大浜や仁田之浜には毎年、牛鬼の竹を卸に行っていました。地域によって違うのですがこの地域では、最後はぶつけてボロボロにしてから燃やすので、牛鬼の骨を毎年作り替えるからです。それで毎年大きな真竹をトラックに積んで行って、そこで割って、骨にするのですが、乾燥させていない生竹なので相当な重さです。宇和島(うわじま)市や北宇和郡、東宇和郡などでは毎年使うため、神社の天井などの邪魔にならないところにつり上げてしまうので、乾燥して軽くなっています。
 大浜や仁田之浜は旧の国道197号沿いにありますが、道がくねくねで、狭く、車の離合ができません。牛鬼は青年団がやっていますが、以前に青年団で最高齢の人は何歳ですかと聞くと、『うーん。54歳かな。』と返ってきました。独身で消防団に入っていたら資格があるという暗黙のルールがあるそうです。」

   (イ) トンネル竹

 「松山平野ではレタスなどの野菜栽培が盛んですが、保温や害虫の防止のためにトンネル栽培が行われています。トンネルの支柱に竹が使われるので、私(Bさん)もえひめ中央農協から、毎年わずかですが注文がきます(写真2-1-6参照)。これを作るのは結構大変で、厚さと幅をそろえて、節を落としたあと、掛けるナイロンが破れないように面取りをする必要があります。そのため、これを作る機械を鉄工所に頼んで、製作しました。作業を一気に行うことができるので画期的だと思います。季節限定で、10月から11月にかけて必要なので、その時期でないときにはしまってあります。」

   (ウ) 養殖用の竹杭

 「私(Bさん)は愛媛県の旧市町村のほとんどに行ったことがあります。島しょ部の多くにも足を運びました。それはなぜかというと、ノリ養殖に欠かせない竹杭(くい)を生産していたからです。ノリ養殖は浅瀬に竹を打ち、それに網を掛けるので、竹が欠かせません。私が高校生のころは竹杭用に一万本の注文が入り、竹を伐るのに適するようになる8月から納期の9月中旬までの間の作業を手伝っていました。まだ暑い時期なのでとてもつらい作業だったことを憶えています。現在ではノリ養殖を行う業者も減ってしまいましたし、塩ビやグラスファイバー製の素材が登場し、竹の注文も減ってしまいました。」

  ク 竹林の荒廃

 「昔は竹をくらしのために植えていました。タケノコを食べたり、建築用の資材や、日用品などいろいろなものを作ったりするためです。ところが、今は使うことがあまりなく、一方で竹はそれ以上に増えていくので、竹林が荒廃してきています。竹林もタケノコが出たときに対処するなど管理すれば良いのですが、多くの場所で放置されています。私(Bさん)のところでも所有している竹林がたくさんありましたが、かつてはそれだけでは足りないので竹の規格ごとに一個体でいくらという契約で竹を伐らせてもらっていました。竹産業が盛んだったころはだいたい3年周期で竹を伐っていたので、今年はどこそこの竹藪だなという感じで管理ができていました。
 ところが、今や農業、竹産業、漁業、林業といった第一次産業は消滅するのではないかと思うくらいです。魚もどんどんとれなくなっていますし、林業は本当に山の価値がなくなりました。竹も放置しているので、植林をしたところにまで地下茎で生えこんできます。そういった竹藪には入ることも困難です。
 竹は大体10年を過ぎる辺りから枯れ始めていくのですが、立ち枯れして、山の中でも倒れ掛かっていきます。そうすると伐採しようと思っても、倒れた竹が邪魔になって、作業ができません。倒れた竹の枯れた枝が、目に入ったりして危ないということもあります。急に振り向いたらそこに枝があって目に刺さるということもあるので、作業眼鏡が必須になりました。管理できていたころは立ち枯れるまでにそのサイクルで入っていましたから、無駄な仕事が必要なかったのですが、今は竹を伐ってくれと言われて、山に入ろうと思っても、1日かけて掃除しないと伐るようにはなりません。それは1円にもならない仕事です。
 また一人で作業をするのは大変です。竹は根元を伐ったときに、根元を下方に向けて倒さなければなりません。そうしないと枝が反対を向き引っ張ることができないので、作業ができません。ところが、普通に伐ると竹の先端の方が下に向いて倒れるので、細い竹なら良いのですが、孟宗竹のような太くて重い竹になると二人でロープを掛けたりしながら伐採する必要があります。竹は軽くて良いなと言われることもありますが、孟宗竹をはじめとして軽いものではなく、とても重いものです。さらに枝を落とすのですが、その枝をその場その場で置いておくとその後、山に入れなくなるので、集めてまとめます。昔は、落とした竹の枝も、竹ぼうきの笹として用途がありましたので、山主に許可をもらって、竹を伐った後にその枝を集めて商売する人もいたくらいです。
 私のところでも竹ぼうきを作っていたころは、自分たちが竹を伐ったときに出た枝だけではとても足りなかったので、それを買っていました。ただ、平成に入ったころからだんだんと注文がなくなってきて、どうしてだろうと思っているとそのころから中国産の竹ぼうきが入ってきていたということが分かりました。当時、ホームセンターで300円くらいの竹ぼうきが20円とか30円という値段で中国から輸入されていことを憶えています。そんな値段で入荷されるわけですから、私たちが作った竹ぼうきが売れるわけがありません。ただ、中国産の竹ぼうきは雑な作りで、痛みも早いものでしたが、安ければ良いということだったと思います。最近では中国産の竹ぼうきの値段も上がってきたようで、いつまでもそのポジションにはいられないということかもしれません。竹の熊手もそうで、日本は熊手をアメリカへ輸出していました。この辺にも輸出用の熊手を作っている会社がありました。ホテル向けの歯ブラシなどを製造している内子の昭和刷子さんも前身は熊手製造業で、私のところと同業者でした。ブラシも竹に穴を空けて埋め込んでいたのですが、これからの時代はということでオートメーション化して大量生産をするようになったのですが、先見の明があったということだと思います。」

 (2) 人々のくらし

  ア 昭和30年代の家電製品

「高度経済成長期にテレビがだんだんと普及したのですが、最初のころは一般の家庭にはまだありませんでした。しかし私(Bさん)の家では早く、昭和36年(1961年)に父が購入しました。そうすると、今では考えられませんが、近所の人たちがお茶の間の時間のときに見にきていたことを憶えています。アニメのときなどは多くの子どもが来て畳が汚れるので、母が畳を取り除いて板の間にしていたことを憶えています。その当時は冷蔵庫もなかったので、井戸の中にスイカを入れて冷やしたりしていたことも憶えています。自然というのは不思議で井戸水は、冬は温くて、夏は冷たいので、有り難いものでした。」

  イ くらしの変化

 「以前は、自然と人類は共存して、自然素材のものをうまく使いながら生活していたのだと思います。竹は籠やざるに、木はおけやわっぱにするなど、山にある資源でいろいろなものを作っていました。今は水田でも、コンバインで収穫してわらは砕いて水田に残していますが、わらなども様々なものに利用されていました。水田に残り、肥料になるので理にかなっていると思いますが、現在でも苗木屋やブドウ農家がわらを必要としているので、稲木を使って稲を天日干している人たちは貴重です。
 私(Bさん)も水田で米を作って、天日干しで米を乾燥させています。以前は優劣がありましたが、今の米は米自体が美味しいので、コンバインでの人工乾燥と天日干しとを比べても分からないくらいです。やはり天日干しは、自然の恵みで乾燥しているので体には良いと思いますが、この半世紀で世の中が大きく転換しました。
 ダイオキシンが問題になって、強い火力で燃やしたら出ないと言われていますけど、どうなのでしょうか。燃やすこと自体が悪いことになって、この辺りにも波及しました。畑仕事をして、それまで当然のようにその場で燃やしていたのに、燃やしたらいけないとなります。役場から認められているものでも、今は燃やす習慣がないので、煙たいとか、洗濯物が臭くなるとかと言われます。私のところも規定の焼却炉を備え付けていますが、昼間に燃やしていると苦情があります。それで、今は役場から『夜に燃やしてください。』と言われたので、夜に燃やすと、夜は火の粉が見えるので、消防署から『ちょっと危ないですね。』と言われ、『夜はやめてください。』と、今は工場もほとんど稼働していないので燃やすことはないのですが、なかなか納得はできません。
 それから第一次産業に伴う虫や臭いも問題になります。かつては養豚や酪農をしている人も近所にたくさんいたので、ハエがたくさんいました。9月になると天井が真っ黒になるくらいいたことを憶えています。臭いも夜になり風向きが変わるとひどい臭いがすることもありました。家畜を飼っているのだから臭いも出ます。そのため、この辺ではできなくなって、山の方へ移っていきました。昔はこうだったと言っても通らないので、仕方のないことではあるのですが、人間が潔癖症になってしまっているのではないかと思います。」



参考文献
・ 角川書店『角川日本地名大辞典38愛媛県』1991
・ 内子町『内子町誌 うちこ時草紙 Ⅰ文化編』2015
・ 内子町『内子町誌 うちこ時草紙 Ⅱ民俗編』2018
・ 内子町『内子町誌 うちこ時草紙 Ⅲ歴史編』2019


写真2-1-4 縁起物

写真2-1-4 縁起物

内子町        令和5年8月撮影

写真2-1-5 竹割機

写真2-1-5 竹割機

内子町        令和5年8月撮影

写真2-1-6 トンネル栽培の支柱

写真2-1-6 トンネル栽培の支柱

内子町        令和5年8月撮影