データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業25-内子町-(令和5年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

第2節 古き町並みのくらし

第2節 古き町並みのくらし

 旧内(うち)子(こ)町は、県都松(まつ)山(やま)市から約40kmの地点に当たり、町の中央部を一級河川・肱川の支流小田川が流れている風光明媚な中山間地域である(図表3-2-1参照)。平地は少なく、山林がその多くを占めている。江戸時代には在郷町として栄えた。在郷町内ノ子村は定期市の立つ六日市、七日市、廿日市の3つの地区に分けられたが、そのうち最も北側の七日市は八日市に改名された。商業の中心は六日市に移っていったが、八日市は木蝋(ろう)生産の町となり、周辺には広い蝋の晒(さら)し場があった。製蝋は明治期になっても繁栄し、明治39年(1906年)のピーク時には、全国の白蝋輸出の8分の1を内子が占め、それにつれ晒蝋業者も増加した。しかし大正末期には西洋蝋の発明、石油の輸入、電灯の導入によって木蝋の需要が激減し、製蝋業者は衰退していった。
 木蝋生産の中心であった八日市地区は、護国地区ともに江戸時代後期から明治にかけて建てられた豪商屋敷や町家が軒を連ねて、木蝋生産で栄えた町の面影を残しており、その中には重要文化財の大村家住宅、本芳我家住宅、上芳我家住宅が存在する。また、近くには大正5年(1916年)に建設された重要文化財の内子座も存在する。これは純和風様式の本格的な芝居小屋で、回り舞台や花道、升席、楽屋などがある当時の建築技術の粋が集められた建造物である。
内子町八日市・護国の町並みは昭和57年(1982年)に四国では初めて国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。重要伝統的建造物群保存地区の制度は、高度経済成長の中で全国的に失われつつあった歴史的環境を守るために制定された。そのため、昭和50年(1975年)の文化財保護法の改正によって伝統的建造物群保存地区制度が発足し、これによって城下町、宿場町、門前町など全国各地に残る歴史的な集落・町並みの保存が図られるようになった。市町村は伝統的建造物群保存地区(以下、『伝建地区』と記す。)を決定し、保存条例を作成し、保存活用計画を定める一方、国は市町村からの申出を受けて、価値が高いと判断したものを重要伝統的建造物群保存地区(以下、『重伝建地区』と記す。)に選定し、市町村が行う修理・修景事業などに対して補助を行い、税制優遇措置などの支援を行うようになった。
 愛媛県では、この内子町八日市・護国の町並みが重伝建地区に指定された後、西(せい)予(よ)市宇和町卯之町が平成21年(2009年)に指定され、今年(令和5年〔2023年〕)11月に国の文化審議会が宇(う)和(わ)島(じま)市津島町岩松伝統的建造物群保存地区を重伝建地区に指定することを文部科学大臣に答申した。
 この内子町八日市・護国の町並み保存運動について、内子町職員として主導的な役割を果たしたAさん(昭和15年生まれ)から、また住民から見た町並み保存運動や人々のくらしについて、八日市護国町並保存会会長のBさん(昭和29年生まれ)から、話をそれぞれ聞いた。