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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業25-内子町-(令和5年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 八日市・護国の町並み保存

 (1) 内子町職員が進めた町並み保存運動

  ア 公務員としての在り方
 「いずれにしても公務員倫理として、公務員は住民の税金から給料をもらっているということを意識として理解できなければならないと思います。給料をもらうのは公務員の特権ではないので、納税者としての市民にお金を払わせる責任というものを共通理解として持っていないといけません。労働者の権利として、当たり前のようにたくさんの給料をもらって、当たり前のように手当を取って、その上に退職金があって、年金があって、これでふんぞり返っている職員もいるのではないかと思います。田舎町の職員採用というと公務員が多く、地方交付税が国から流れてきているので、その賃金も払えるわけですが、まず住民の生活を誰が守るのかという意識を持てる職員と持てない職員の差が仕事の成果になって現れてくるのではないかと思います。
 例えば農政の分野でも、狭い島国で農業は大切だと言われながら、全く食料自給率だって上がりません。食料自給率が38%ですが、誰一人40%に乗せる人がいないわけです。悲しいかな、これが現状です。その中で町並み保存というものが新しい観光産業として始まるのですが、振り返ったらまあ大変でした。
 私(Aさん)は戦時中の昭和15年(1940年)に生まれ、小学1年生のときが昭和21年(1946年)になります。生まれは大(おお)洲(ず)なのですが、そのころはどこの家庭でも子だくさんで、口減らしのために内子の家に養子に出されました。それで内子で育って内子町職員となったのですが、入ってすぐに労働組合の活動を始めました。昭和45年(1970年)に産業課に観光係というものができて、そこに配属されて町並み保存運動に関わるのですが、その係にいなくても多分町並み保存に関わっていたのではないかと思います。
 そのころ私は、組合活動も熱心に行っていました。労働運動の経験がなかったら、町並み保存といった住民運動はやれていないと思います。最近は組合活動自体がないので、経験しようがないのですが、まちづくりには闘う力も必要だと思っています。全国でさまざまな形でまちづくりがチャレンジされるのですが、住民や有権者全員が反対するような内容に、真理があることもあるのです。誰も彼もが賛成と手を挙げるようなものを今更やっても追いつかないし、始まりもしません。
 内子でも町並み保存運動も内子座の保存も反対の声が多く、ありとあらゆるもの全てが否定されていました。その否定されるパワーといかに闘うかということが大切で、振り返ると楽しかったと思います。また新聞社にも放送局にも労働組合がありますが、その人たちが応援してくれたことも保存運動の力になりました。」
  イ 町並み保存運動の開始
 「内子の町並み保存運動が始まったのが昭和40年代後半で、そのころ町並み保存を行っていたのは、萩(はぎ)(山口県)・津(つ)和(わ)野(の)(島根県)や倉敷(くらしき)(岡山県)くらいでした。
 もう昔の話になってしまいますが、悲しいことに愛媛県教育委員会は最初の段階で反対でした。南予には外泊(愛(あい)南(なん)町)の石垣集落があるので、県としては重伝建地区にはそこを推薦したいので、内子町が不要な行動をしないでほしいということで門前払いでした。それで、その足で文化庁に行って、県の方はそのような方針であるということをきちんと報告しました。それで国が予算をつけてくれて動いてくれたのです。
 町並み保存運動には反対する住民が多かったというよりも、賛成したとしても得るものが何もないのではないかという人が多かったように私(Aさん)は思います。それで、賛成する住民を作ろうと考えました。内子で運動が成功した理由に、賛成とか反対と言って対立するような住民関係が作られなかったということは一つあるかもしれません。
 まず、基本的には、町並み保存地区の中の顔役的な立場の住民に、こんなことを考えているのだけれどと、町並み保存の意義や目的、達成した後の成果といったことを話して賛意を取り付けるということを行いました。そのために、長野県の妻籠宿(南木曽(なぎそ)町)や岐阜県の高(たか)山(やま)といった場所に視察に行って、歴史的環境を残せばこれだけの人が来るという現場を見てもらうことで、前向きの話になってきたと思います。どうしても話だけでは伝えきれないので、実際の現場を見てもらおうと考えたのです。
通常は現場を見るとなると自治体の職員が見るだけで、名刺を配っておしまいということが多いですが、内子では大半の住民を何回かに分けて連れていきました。ほとんどの住民が行きましたが、やはりあの人が行って、私が行ってないということになるとその不満が反対につながります。町長を説得して、まずトップバッターとして町議会議員を連れて行きました。反対する声が大きい人ほど大事にしないといけません。敵にしたら厄介だという人を先に仲間にするのが大切です。全ての住民運動がそうなのだと思います。
 妻籠宿には年に数回行きました。そのころは高速道路もない時代だったので、高浜からフェリーで神戸(こうべ)(兵庫県)に着いて、そこから車です。名古屋(なごや)市(愛知県)から南木曽町へ国道19号をドライブで、楽しかったことを憶えています。
 それで運動をしている中で、内子の場合はメディアがバックアップしてくれました。特に愛媛新聞やNHKなどが強力な応援団になりました。私が住民に10度話すよりも、テレビを通して、大学の先生が『内子にはこんな町並みがある。』と語ってくれた方が良いからです。文化庁から補助された200万円で、近県の大学の先生に調査報告書を作ってもらいましたが、その後は東京の有名大学の先生に話してもらうようになりました。その方がインパクトがあります。」
  ウ 木蝋資料館上芳我邸
 「昭和55年(1980年)に上芳我邸を町が借りて、博物館として公開しました。町が所有するのではなく、経営して入場料が収入になるようにしようと考えたのです。町並みに訪れた観光客の最初の足止めができる空間が必要で、そのような場所がないと面白味もなく、素通りするだけなので、そのために公開施設として上芳我邸を借りて、簡単な整備だけをしてスタートしました。
 ただ、現状では十分に魅力が出せてないように思います。内子座にしても上芳我邸にしても、そのためにわざわざ行きたくなるような愛媛県の観光資源としてのミュージアムのトップ10に常にいるような施設になると思うからです。そのためには、学芸員や職員の中から人材が育って欲しいと考えています。皆が錯覚を起こしていますが、観光資源というのは物ではなく人なのだと私(Aさん)は思うのです。」
  エ 内子座の保存運動
 「内子座の保存にしても同様で、新しいコンクリートの文化ホールの建築を計画として示せば、多くの人が賛成したのではないかと思います。それで、大洲のそれよりも大きいものを、八(や)幡(わた)浜(はま)より立派なものを作るというつまらない話ばかりが一人歩きしています。今もいろいろな所で、小さな町にも大きな文化ホールが作られていますが、使用もされずにお荷物になって困ってしまっているところも多いのではないかと思います。10億円で文化ホールを作ったら、毎年1億円の維持費が掛かってしまいます。
 私(Aさん)が保存に関わった内子座は木造の古い建物ですが、それでも毎日のようにイベントが入っています。内子座は維持費として年間1,000万円も掛かっておらず、年間に3万人以上の人が来てくれ、見学料で十分賄えるようになっています。また文楽や歌舞伎の公演が行われ、全国から熱心なファンが来てくれ、その効果は非常に大きいものとなっています(写真3-2-1参照)。」
  オ 内子らしさの追求 エコロジータウン内子は緑化から
 「町並み保存地区だけではなく、私(Aさん)たちは『エコロジータウン内子は緑化から』というテーマを掲げて町全体の空間作りをしてきました。例えば道の駅『内子フレッシュパークからり』は緑に囲まれた空間で、あれだけ園内に木を植えている道の駅は他にないのではないかと思います(写真3-2-2参照)。道の駅からりは製材所跡に作られたものですから、森の中に作ったのではなくて、わざわざ木を植えたのです。
 内子町並駐車場にしても同様で、木をたくさん植えて、木陰の中に車を止めることができるようにしています(写真3-2-3参照)。こういう緑のロケーションが大切で、知清公園のキャンプ場も同様の空間作りをしています。
 内子らしさという概念をどう位置付けるか、案外この『らしさ』というものに多くの人が無関心で、私たちは絵になる風景というものをどれだけたくさん町の中に作るかということで、緑の空間を作っていったのです。」
  カ 南予の町並み保存
 「私(Aさん)は、町並み保存に携わっているころに、内子をスタートして宇和島まで町並みを巡っていくと立派な観光資源となると考えていました。ただ、観光ということが十分に学習されていないのではないかと思います。観光とは何かという問いに対して、首長を含めて誰も答えられないのではないかと思うのです。単にポスターを印刷し、宣伝してお客さんが来てくれれば観光だという考えは間違っているのではと思うのです。
 内子の後に卯之町が伝建地区に指定されて、岩松ももうすぐです。やっと価値のあるものが理解されてきたのではないかと思います。他にも南予には残したい町並みが残っていますが、住民自身が旗振り役になって、自分たちの町を残すということがありません。もう少し早い時期だったら良かったのですが、住民も高齢化して旗振り役が生まれません。」
  キ 観光の在り方
 「全国の主要な観光地は、観光資源で一番重要なものは歴史的な空間です。歴史のないところは自然環境が整っているようなところ、例えば温泉だったり、山だったりということはありますが、やはり歴史的な空間にはかないません。
 だから歴史的空間のないところは観光化しにくいので、松山市なども苦労しています。戦災で町の中心部が大きな被害を受けたので、松山市という歴史を表現する空間に苦労しているからです。それでも近年は城山公園であるとか、花園町に美しい空間を設け、都市計画として整備して街を造り変えているので、全国の中でも松山という町が力をつけ始めており、成果が出ているのではないかと思います。
 さらに観光を考えるときに、良い町というのはマスツーリズムに迎合しない町です。年間100万人の観光客の客単価が1,000円だとすると、これで10億の売り上げです。ところがこのために駐車場、公衆トイレ、レストラン、土産物店、あらゆるインフラを整備しないと100万人という観光客を受け入れることができません。逆に客単価を1万円にすることができれば、観光客数は10分の1で済みます。そうするとインフラが不要で、整備費用の分が丸もうけです。だからできるだけ小さな投資で大きな収益を上げるような観光の在り方を、どう住民に伝えるかということが大切なのです。
 ところが大型バスがたくさん来て喜んでいるというのが観光行政の実態で、宣伝すれば人が来て、人が来ればお金になって、これがぐるぐる好循環をするというのは幻想で、いかにいい加減で、無責任なことを言っているのではないかと思います。大事なのはおもてなしの言葉や心を町ぐるみでどう作っていくかということではないでしょうか。
 成功例が内子町の山間部にある石畳地区で、これも大変でした。しかし東京では内子と石畳のネームバリューが同じくらいで、そのくらい村並み保存として石畳が有名になっています。そのために私(Aさん)たちはスイスのチューリヒまで勉強に行きました。山の中の人口200人くらいの村がどういう価値観で生きているかという勉強のためです。それぞれのポケットマネーで住民30人が一緒に行きました。行った村は人口が276人の村でしたが、こんなに少ない人口の自治体は日本では真似できないのではないかと思います。スイスの観光産業が盛んなところというのはそういうところなのだと実感しました。
 町並み保存運動で最も大切なものは、観光客を増やすことではなく、自治意識を高めることではないかと思います。自分たちの力や価値観で、自分たちの住んでいる伝建地区をコントロールする力を身に付けることが町並み保存の一番の狙いです。ヨーロッパの多くの国ではそういう意識が育っているのではないかと思いますが、それが日本には足りないように思うのです。」

 (2) 住民から見た町並み保存運動

  ア 町並み保存運動の開始
 「高校の教員で、画家の井門さんという人が、昭和40年代の半ばころに、内子の町並みは素晴らしいと最初に言い出したのだそうです。井門さんは中芳我家の人と結婚して中芳我の家を相続して住んでいました。それで、何とかこの素晴らしさを紹介しなければという運動を始めたということですが、それに賛同したのが町役場の職員だった岡田さんでした。ただ、岡田さんは役場で先鞭(べん)を付けたのですが、なかなか理解してもらえず、孤軍奮闘だったそうです。町内でも浮いた感じになっていたということを私(Bさん)は聞きました。その当時には町並みを保存するという概念がなかったということが大きかったのではないかと思います。それで何を夢みたいな、馬鹿なことを言っているんだという感じだったと思います。
 岡田さんは県にも話を持って行きましたが、県も同じだったと言っていました。町並み保存はどうやってするのか、保存して何になるのかということで、全く話にならなかったそうです。それで、文部省(現文部科学省)に行こうということになって、行ってみたらすごかったと言っていました。文部省は『分かります。日本の伝統的なものが失われていくのはもったいないことです。何とか対応しなければ。』と自分の話を全部分かってくれて、やはり全国から優秀な人材が集まっているところは違うなと感じたそうです。そのようにして町並み保存運動が始まりました。
 そうこうしている中、昭和50年(1975年)、私は大学1年生でしたが、町並みが『アサヒグラフ』の全国版に特集されました。私も自分が住んでいた町が取り上げられて衝撃を受け、それを写真に撮ったことを憶えています。」
  イ 住民の反応
 「最初は町並み保存をして何になるという反対よりも、町並み保存というのは何なのだろう状態で、賛同者がほとんどいませんでした。私の父も最初は何だろうと、ふに落ちないというような認識だったと思います。
 私(Bさん)が高校生か大学生のころに、この家も古くなってきたので、いつか壊さないといけない、そのときは日当たりの良い家を建てないといけないという話をしていたくらいです。それというのも通りが南北方向にあって、昔の町家ですから、間口は狭く長い家で、隣家が隣接して建っているので、南からの日光や風通しが非常に悪いのです。建て替えようかと言っていたくらいですから、保存をしなければならないという意識は父にはありません。住民の中には自由な新築改造ができなくなるということで反対の意見もあったようですが、そこを岡田さんを中心とした役場の職員が戸別訪問をして町並みの保存の重要性を説いていったと聞きました。
 呼び掛けて広報を配ってというだけでは賛同者は増えなかったと思いますので、このような地道な活動が大事だったということだと思います。膝突き合わせて何回か話をする中でだんだんと賛同者も増えていって、消極的な参加も増えていったということです。私の父も特に意見はなかったようで、そういう流れだったらそうしても良いというくらいで、私も積極的に保存運動をしなければという熱意もありませんでした。
 運動を中止せよという積極的な反対は保存地区の中ではあまり聞きませんでした。ここの住民は穏やかな考えを持つ人が多かったので、皆がそうだったらそれで良いという感じだったと思います。ただ、八日市が伝建地区になったので、六日市も指定を目指したらどうかという岡田さんの意見に対しては、強い反対があったとも聞いています。私は商店街の商売の邪魔になるということで反対していたと思っていたのですが、調べてみると伝建地区にするには昔に戻さないといけないと考えて反対する人がいたそうです。
商店街では大正13年(1924年)に商店の軒を切って道を広げたそうです。それで現在の国道ができるまではその道が国道でしたし、バスも通るメインの道路となりました。それで、元に戻して道路が狭くなると、車が走れなくなるということで反対していたそうです。昔の状態に戻さないといけないということがどこまでを指すのか詳しくは分かりませんが、たしかに道幅が狭くなるとしんどいのではないかと思いました。
 また、岡田さんは八日市の住民や商店街の人を町並み保存の草分け的である妻籠宿へ派遣したようです。それで勉強してきて、住民も皆が賛同するようになり、昭和57年(1982年)に伝建地区に指定されました。指定の追い風としてはアサヒグラフのほかに、のちに重要文化財として指定される本芳我家住宅、上芳我家住宅、大村家住宅の3軒があったことも大きいのだと思います。」
  ウ 修理・修景
 「伝建地区に指定された後、町並みを維持するために修理や修景が行われるようになりました。修景とは、選定のときにすでに建て替わっていた家を今更壊してということはできませんので、町並みに合うようにするということです。敷地の奥に新しい家がある場合は、大和塀をつけて目隠しをしたり、町並みに合うように家の塗料を塗り直したりということを施しています。
 住んでいる住民としては、やはりこうやって選定されて注目されると、『見てみい、不便な所だけど、わしはここに住んどるんぞ。』という誇りのような気持ちが出てきました。それで昔の景観をずっと保っていかなければならないという気持ちになっています。そうではないと私(Bさん)も保存会長なんかできません。」
  エ 八日市・護国町並み保存地区の保存方針
 「私(Bさん)たちの地区の保存方針として、観光のための保存ではないということが特色の一つではないかと思います。観光よりも住民の生活が優先と明言しても良いくらいです。場所によっては観光客がいないと成り立たないというところもあります。毎年全国で町並みゼミというものが開かれて、行っているのですが、福島県の大内宿(下(しも)郷(ごう)町)ではそのように感じました。
大内宿には茅(かや)葺(ぶ)き屋根がずらっと並んでいるのですが、観光客が来なかったらもう成り立ちません。茅葺き屋根の家並みはほとんどそば屋や土産物屋などの商店で、そうやって生活を成り立たせています。だから観光客が来ないとその保存地区は誰もいなくなるだろうなというところです。観光客がたくさん来ることによって困る所もあって、倉敷では商店が多く、行って感じるのは町並みや古い家を見るのではなく、商品ばかりに目が行ってしまうということです。
八日市・護国の町並みは看板や旗を立てるといった目立つことはやめましょうという申し合わせをしているのですが、倉敷では商売が優先でなかなか統制が効かないと聞きました。一方で他の保存地区の人から、内子はもっと商売っ気を出してしても良いのではという声を聞くこともあります。確かに観光客の声を聞いていると、もうちょっと休むところ、昼食を食べるところがほしいという声もあります。」
  オ 保存地区で暮らして
 「私(Bさん)の家は二つの部分から成り立っていて、通りに面した総二階の家と、それに付属する部分です。総二階の家は五十崎から移築をしたと聞いています。町並みの最初の調査で、この部分は江戸時代後期の建物と推定されており、移築したのは日露戦争のころで、付属の建物はそのころの新築だそうです。
 この町並み保存地区の建物は幅広い年代の物があるということが珍しいそうで、一部江戸時代のものがあって、明治、大正、昭和初期のものが残っています。中では明治後半が多いのかもしれません。
 今は隣が中学校の白い塀になっていますが、昔は私の家よりも一回り大きな家が建っていたようです。なので、南からの日光は望むべくもないですし、風通しも悪く、しかも西が開けているので、西向きの部屋は夏になると暑くてたまりません。私が子どもころは『今日は30℃なので暑いな。』と言っていたものでしたが、今では40℃が目前の日もあります。私の感覚だと夏だけは7℃か8℃は上がっているような感じがしています。かろうじて昔はクーラーなしでも過ごせていましたが、今はないと暮らせません。壁に穴を空けて室外機を置かないといけないので、それでどこへ設置するかを迷っています。
 外観を変更するとき、建物が成り立つための土台と外の壁、それから屋根を変えようと思うと規制がありますが、内部はありません。土台や外壁、屋根の補修には8割の補助がありますが、もちろん内部の変更は全て自己負担です。ただ、私も江戸時代や明治時代そのままの暮らしをすることはできませんから、トイレも洋式にしていますし、風呂場もユニットバスにしています。」
  カ これからの町並み保存地区
 「多くの人がやって来る観月会や正月飾りを燃やすどんど焼きなどの行事もやっていますが、あくまで観光客のために行うのではなく、自分たちの生活文化を維持し、私(Bさん)たちが楽しむ姿を見てもらおうというのが趣旨です。
 また保存会が主催して、次の世代に生活文化や保存地区について理解してもらうための体験活動や学習会も行っています。壁の修理があるときなどは子どもたちに体験してもらっています。左官が一軒残っており、まだ若い人がやっているのでまだまだ数十年は大丈夫でしょう。
 近年では文化財の活用ということが言われていますが、この保存地区では先駆的な取組をしています。一例として上芳我邸で結婚式を挙げて町を練り歩き、住民が大正時代の服装をして見物人として見守るというようなことも行いました。
 現在は実際に住んでいる住民が亡くなったり、施設に入ったりでだんだんと空き家も増えてきました。そのため空き家を紹介して移住を促進する町の取組や、地域おこし協力隊出身者による出店なども行いました。最近では一棟貸しで宿泊できるところも2軒できました。もちろん、移住してくる人や出店する人に、旗を出したりするようなあまり派手なことはしないでくれということなどを説明した上でのことです。そのことを皆気持ちよく理解してもらっています。
私が大分県の日(ひ)田(た)市に行ったときに、その家の血筋の人が住まなくても、誰かが住んでくれたら良いのではないかという話を聞き、私もそう思うようになりました。誰かが住んで維持してくれたら良いと思っています。内子の特徴の一つとして行政と仲良くやっていることも挙げられます。場所によっては対立しているところもあるので、良好な関係がこれからも築いていけると良いと思っています。」