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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業25-内子町-(令和5年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 子どものくらし

 (1) 手伝い

  ア 上川

 「私(Aさん)は、小学校から帰ると、親を手伝ってコンニャクイモの毛をむしったり、トウキビの皮を剝いだりしていました。冬になるとミツマタの皮を剝ぐ作業が行われましたが、休日には私も手伝っており、親戚や近所の人も手伝いに来ていたと思います。父は夜中にかまどに火を入れて釜の湯を沸かしていたことを憶えています。午前4時ころから作業を始め、一通り終えてから朝食となりました。この皮を剝いで食事という流れを1日に5回くらい繰り返していたと思います。皮を剝いでいるときに、『これが一万円札の原料になるんぞ。』と言われたことを憶えています。
中学生になると、下校後に家の手伝いとして、牛の餌を作って与えたり、薪をくべて 風呂を沸かしたりするようになりました。」

  イ 本川

   (ア)家の手伝い

 「私(Dさん)が子どものころ、子どもは家の働き手の一部みたいになっており、何から何まで手伝いをしていました。養蚕を行っていたときには、繭の出荷前に繭に付いている毛羽を落とす作業をしました。葉タバコを栽培していたときには、収穫の時期が夏休みだったので、一日中手伝っていました。乾燥場に行って、葉タバコを集めて出荷用の袋に詰めたり、葉タバコを詰めた袋を集めたりする作業をしていました。また、畑にも行って、収穫した葉タバコを乾燥場まで運んでいました。」

   (イ)農繁期の休み

 「私(Cさん)が子どものころ、小学生の高学年から中学生の子どもは、夏休みを短くして、農家以外の子どもたちも5日間ほど収穫の手伝いに行かされていました。収穫の手伝いをしたときに、褒められたことを憶えています。」

 (2) 学校の記憶

  ア 参川東小学校

 「私(Aさん)が小学生のころ、上川の子どもたちは参川東小学校へ通っていました。参川東小学校があったのは、現在の上川自治会館がある場所で、当時の校舎はなくなっていますが、講堂はそのまま残っています(写真3-1-6参照)。なお、二宮金次郎の銅像も残っていますが、数年前に盗まれて行方不明になっていました。しばらくして、見つかったとの連絡が久万警察署からあり、当時の公民館の分館長が取りに行ったところ、ペンキで着色されていました。犯人が何の目的で銅像を盗んで着色したかは不明です。
 子どもたちは、登校すると始業時間までグランドで汗だくになって遊んでおり、冬は身体から湯気が出るほどでした。冬はストーブを使っていましたが、その燃料である薪が校舎横に山積みされていたことを憶えています。薪は事前に大人が山に入って用意してくれており、5、6年生がオイコに背負って山から学校へ持って帰っていました。
 私の家から小学校までは、約2㎞ありました。帰り道は上り坂が続き、子どもの足ではなかなか大変だったため、たまに路線バスに乗せてもらうことがありました。当時はこの辺りも路線バスが走っており、私たちは学校からの帰り道でバスを見かけると、まるでヒッチハイクをするようにバスを止めていました。当時のバスは今のように馬力がなかったため、小学生の足でもバスに追いつくことができました。運転手さんに『乗せてください。』とお願いすると、今では考えられないですが、私たちをバスに乗せてくれたのです。」

  イ 参川西小学校

 「私(Bさん)が参川西小学校に通っていた当時、1学年に松と竹の2クラスあり、1クラスは40人くらいで、全校で400人以上いたと思います(写真3-1-7参照)。いわゆる団塊の世代での学年では、3クラスだったときもあり、さらに多くの子どもがいました。やがて子どもの数が減っていくと、参川に東西二つあった小学校は統合され(昭和51年〔1976年〕)、参川小学校となりました。今から15年くらい前、私は自治会の世話をしていた関係で、参川小学校の入学式に参加しましたが、広い体育館の前の方に、子どもが全校で50人弱くらいしかおらず、『昔はあんなにたくさんの子どもがいたのに』と驚きました。
私が小学校に通っていた当時、男子は強制されていたわけではありませんが、ほとんどが坊主頭で、クラスの中に二、三人くらいいた裕福な家の子どもは長髪にしていたと思います。
 先生が黒板に『よその生(な)り木にすがらない』と書いていたことが印象に残っています。生り木というのは、カキ、モモ、ビワ、イチジクなどのことです。当時、みんな食べ物に不自由していて、そういう生り木を見たとき、人の家のものであっても、ついつい手にして食べたくなってしまうのをいさめるためでした。
小学校で楽しみだったのは、年に何回か小学校の講堂で上演される巡回映画でした。私が印象に残っているのは、赤胴鈴之助が主人公の映画で、赤胴鈴之助が活躍する場面では、講堂一杯にいた子どもたちが、割れるほどの拍手をしていたことを憶えています。」
「私(Dさん)は麓にある参川西小学校へ、昔の山道で通学していました。登校するときは下りになるので良いのですが、下校するときは上りになるためしんどかったです。途中まで上っては休み、途中まで上っては休みと繰り返したため、かなり時間が掛かっていました。
麓に下りることになるので、母から買い物をよく頼まれていました。はったい粉の買い物を頼まれたとき、オイコに背負って帰ったのですが、しんどくなったので、途中で休んではったい粉をつまみ食いしたことを憶えています。
 野村集落は標高が高いため、雪がよく積もりました。雪が深く積もったときには、親が雪をかき分けながら途中まで一緒に歩いて送ってくれていました。雪が降り続いたときは、帰り道にまた雪が深く積もっているので、親が迎えに来てくれたことを憶えています。
 私が参川西小学校へ通っていたとき、広瀬神社の向かいにあった広瀬館という映画館に、学校から映画を観に行きました。吉永小百合主演の『愛と死をみつめて』を観たことを憶えています。」

  ウ 参川中学校

 「私(Aさん)は、参川中学校へは自転車通学をしました(写真3-1-8参照)。当時、この辺りでは自転車は珍しく、中学校への入学を機に、ようやく親が買ってくれたのです。参川中学校は参川西小学校と参川東中学校を卒業した子どもたちが通っていました。そのため、運動会は参川地区全体を挙げてのものとなり、グランド一杯に人が集まり、大変盛り上がっていたことを憶えています。」
「中学生のころになると、親と食べるのが恥ずかしいので、運動会のときの弁当は7、8人の友人と河原の方で食べたことを憶えています。弁当の中身は、家庭の事情によって全然違いました。私(Bさん)の弁当にはほとんどおかずがありませんでしたが、友人の中には卵焼きや果物などおいしそうなものが入っている子もいました。すると、友人が『食べるか。』と言ってきたので、もらって食べたことを憶えています。」
 「私(Cさん)は運動が得意だったので、小中学校合同の運動会のとき、ラジオ体操の指揮を任されたことがあります。合同の運動会なので、700人くらいのこどもたちが集まることになりますが、田舎でそれほどの規模の運動会が行われるのは珍しいと、愛媛新聞が取材に来ることになりました。みんなの前に出てラジオ体操をすることになるため、先生から『左右反対の動きでできるように覚えなさい。』と言われました。左右反対の動きを覚えるのは大変で、大勢の人の前で失敗したくなかったので、普通どおりにやらせてもらいたかったのですが、新聞の取材があることもあって、先生は許してくれずに苦労したことを憶えています。」

  エ 小田高校

 「私(Aさん)は参川中学校卒業後、小田高校(現愛媛県立内子高等学校小田分校)に進学しました。初めは自転車で通学していましたが、上川からは遠いので、免許を取得してからはオートバイで通学するようになりました。オートバイ通学するのに特に許可は必要なかったと思います。オートバイの大きさの指定もなく、オートバイ通学の生徒は、家にあるオートバイで通学していました。交通量が少ないこともあり、オートバイ通学で事故を起こした生徒はいなかったと思います。」
 「私(Cさん)たちの世代は、まだまだ高校への進学率が高くなく、同級生104人のうち、高校へ進学したのは17、18人くらいだったと記憶しています。そのうち、女子は一人だけでした。地元の小田高校へ進学したのは、私を含めて8人で、小田高校の一期生になります。小田高校を受験したとき、定員120人に対して140人くらいの受験者がいたと思います。私は、運動は得意でしたが勉強は苦手で、担任の先生も合格できるかどうか心配していましたが、何とか合格することができました。当時の小田高校は定時制でしたが、昼間も授業をしていたので、3年で卒業することができました。」

 (3) 子どもの遊び

  ア 餓鬼大将とともに

 「私(Aさん)が子どものころ、いわゆる餓鬼大将がいて、餓鬼大将を中心にして友達同士5、6人で学校からの帰り道に遊んだり、下校後に山で遊んだりしていました。学校からの帰り道では、いたずらをして怒られたことをよく憶えています。
近所の家の煙突に草を突っ込んだのですが、その家がたまたま小学校の養護の先生の家だったのです。煙突に草を突っ込んだため、風呂を沸かそうとしてもうまく燃えません。気が付いた先生にひどく怒られましたが、その先生は5、6年前に亡くなるまで、私に会うたびに、そのいたずらのことを話題にしていました。
いたずらはよくしていましたが、餓鬼大将は、弱い者いじめするなど、人を傷つけるようなことは決してしませんでした。そのため、子どもたちだけで遊んでいても、親は安心していたのではないかと思います。餓鬼大将はいろいろなこと教えてくれましたが、親よりも多くのことを教えてくれたかもしれません。その餓鬼大将だった人とは、今でも付き合いがあります。」

  イ 学校で遊ぶ

 「私(Bさん)の家は参川西小学校のすぐそばにあったので、放課後は山や川に行って遊んだり、学校で遊んだりしました。山に遊びに行ったときには、適当な大きさの木の枝を見つけて、それを削ってちゃんばらごっこをしていましたが、うっかりハゼの木を削ってしまったため、手がかぶれてしまったことを憶えています。川に遊びに行ったときには、魚がいそうなところにビンヅケと呼んでいた、一度中に入ると出てくることのできないわなを仕掛けて、たくさんの魚を捕まえていました。残念ながら、今ではそれほど多くの魚を見掛けなくなりました。
学校での遊びで印象に残っているのは、小学校5、6年生のころにしたドッジボールです。男女に分かれて対抗戦をしたときに、年齢的に女子の方が体格に恵まれていたので、男子が負けていたことを憶えています。ほかにも竹馬や水鉄砲、こまを作って遊んだり、自転車の車輪や樽(たる)に付いている輪っかを転がして遊んだりしました。また、三島神社の前にあった駄菓子屋でパチンコ(いわゆるメンコ)を買ってきて、友人たちとパチンコの取り合いをして遊んでいました。
神社の近くに住んでいる子どもたちは、神社の境内で遊んでいて、一時期、神社の境内には鉄棒やブランコ、シーソーといった遊具がありました。子どもの数が減ってきて、遊具が古くなってきたために、現在は撤去されています。」

  ウ 子どもたちの楽しみ

 「私(Dさん)が子どものころ、キャンディー屋が来るのを楽しみにしていました。キャンディー屋がどこから来ていたのかは分かりませんが、道路が整備されていなかったため、野村まで細い山道を自転車で上ってきたことを憶えています。到着するとベルを鳴らしていましたが、それを聞いた子どもたちが集まってきて、キャンディーを買っていきました。
 私が子どものころ、野村では白黒テレビがある家はほとんどなく、夕方になると白黒テレビがある家に子どもたちが集まって、テレビを見せてもらうのが楽しみでした。遅くなってくると、その家の人に『早く帰りなさい。』と怒られたことを憶えています。
外遊びで印象に残っているのは、洞穴の探検です。私たちが『風穴』と呼んでいた洞穴は、野村よりもさらに上方にある日野川にある洞穴とつながっているとされていましたが、人が入れる所は限られていて、短い距離ですが探検していました(図表3-1-1参照)。また、この洞穴は麓にある日野集落にある洞穴ともつながっていると聞いたので、そちらから入ったことがありますが、途中まで進むと水がたまっていて、先に進めなかったことを憶えています(図表3-1-1参照)。」

  エ お盆炊き

 「最近では行われなくなりましたが、私(Bさん)が子どものころ、盆のときに、お盆炊きをしたことを憶えています。お盆炊きは、河原ボイトとも言っており、河原に近所の子どもたちが5、6人から7、8人集まって御飯を炊いて食べるという習わしです。河原で炊くので、あまり上手に御飯は炊けずに、御飯が硬すぎたり柔らかすぎたりしましたが、白御飯が食べられるのでうれしかったことを憶えています。」


参考文献
・ 小田町『小田町誌』1985
・ 角川書店『角川日本地名大辞典38愛媛県』1991
・ 内子町『内子町誌 うちこ時草紙 Ⅰ文化編』2015
・ 内子町『内子町誌 うちこ時草紙 Ⅱ民俗編』2018


写真3-1-6 参川東小学校跡

写真3-1-6 参川東小学校跡

内子町             令和5年9月撮影

写真3-1-7 参川西小学校(後の参川小学校)跡

写真3-1-7 参川西小学校(後の参川小学校)跡

内子町             令和5年9月撮影

写真3-1-8 参川中学校跡

写真3-1-8 参川中学校跡

内子町             令和5年9月撮影