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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業25-内子町-(令和5年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

3 大久喜鉱山

(1) 大久喜鉱山に勤める

  ア 鉱山の仕事

   (ア)鉱山に就職する

 「私(Eさん)は現在の内子町平岡で生まれ育ち、高校を卒業した後大久喜鉱山で働き始め、鉱山が閉山する昭和46年(1971年)まで12年間勤めました。閉山後も内子町で働き、現在に至っています。
 私が子どものころ、当時の旧五十崎町だけでなく旧内子町の小学生や中学生は、一度は大久喜鉱山に遠足で行った経験があると思います。私は人から誘われて大久喜鉱山に勤めるようになりましたが、地元の者ですので鉱山の敷地で暮らすのではなく通いで勤務していました。鉱山内の事務所では、東京の本社や別の鉱山から転勤してきた人が働いていて、専門技術を持った人も同様に転勤でこちらに来ていました。現場の労働者は地元で採用された人が多かったと思います。
 戦時中や終戦直後、着る物をはじめ物資がなかった時代に、大久喜鉱山で勤めていた人には地下足袋や着物といった物資が配給によって届いていました。その点では優遇されていましたが、いわゆる『きつい、汚い、危険』の3Kの職場ということは地域の人たちも分かっていましたから、鉱山で働くことに憧れを抱くまでにはなっていませんでした。鉱山の労働者は、どこの炭鉱でも同じだと思いますがその日暮らしの人が多く、稼いだお金をたちまち飲食や遊興費に使う雰囲気が残っていました。
 私はボーリング課に所属し、地質調査や鉱石探索の仕事に携わっていました。大久喜鉱山では銅鉱石が採れ、それを狙って開山されました。大久喜鉱山のある神南山は褶(しゅう)曲した地形になっていますから、波状になった地層を頭に入れて掘り進めていきますが、実際は芋づる式に掘っていましたので、銅鉱石層を予測しつつも四方八方に掘って鉱石の多い方に向かって掘り進めました。専門職の方が、『別子銅山は地層からきれいに重なっているので鉱石の層を見つけたら後は掘りやすいが、ここは層が曲がっているので目指す地層を見つけ出すのは難しい。だから、私たちの知識と経験は東京大学や九州大学の研究者も参考にしている。』と話していたことを憶えています。そのような特徴がある鉱山ですから、坑道は整然と掘られたものではなくあちこちに広がっていました。神南山の東側に小田川が流れていますが、山の高い所から川底の辺りまで坑道が走っていましたし、さらに掘り進めると別の山の方に鉱石の層が広がっていることが分かっていました。
 ボーリングの仕事は鉱石のサンプルを採ることでしたから、時には坑道の先端部にも行くことがありました。そのようなときは、一度坑道に入ったら仕事を終えるまで外に出ることはないため、坑道の途中に休憩所を設置していました。鉱山は、基本的に朝の8時から夕方の4時までの勤務なのですが、忙しくなると2交代、さらには3交代で24時間連続して稼働することがありました。
 坑道の外には掘り出した銅鉱石を選別する選鉱場があり、そこでは女性労働者の姿もありました。選鉱場では銅鉱石とその他の岩石とを選別し、銅鉱石は品質によってランク分けされていました。選別された銅鉱石はインクラインに載せて山の下まで運び、そこからトラックで五十崎の駅まで運びました。そして汽車で長浜(ながはま)町(現大洲市)の港まで運んだ後、船で精錬所があった香川県の直島まで運んでいました。」

   (イ) 坑道の中

 「採掘は、まず削岩夫が掘り進めていき、次に坑道を補強するために支柱夫が枠を組み立てていました。その後、ボーリング調査を行って鉱石の有無を調べ、鉱石の存在を確認すると次は測量をして実際の坑道の大きさを決めて採掘に取り掛かっていたことを私(Eさん)は憶えています。坑内ではセメントを使用することはなく、坑木と呼ばれる木材で坑道を補強していました。水に強いマツの大木が使われていましたが、使用される量も大変多いため、坑外には貯木場がありました。
 大久喜鉱山では過去に坑道の地図の一部を焼失させたことがあり、地図のない状態で掘り進めた結果、既存の坑道にぶつかったこともありました。銅鉱山であり、岩石は硬い方に分類されますから、坑道の崩落事故は炭鉱ほど発生しなかったのですが、それでも層の境目断層から岩石が流れ出る崩落事故等、全く事故が起こらないわけではありませんでした。
 鉱山では死亡事故が起きる前には30件の大きな事故が発生し、大事故が起きる前には300件の小さな事故が起きるとよく言われていました。よって、『300事故防止運動』の名の下に、不注意で発生した小事故や、坑道を支える坑木を運ぶ際に木で頭を打ったとか斧(おの)で手をけがしたとか、日常の小さなトラブルでも一つ一つ報告書を作成することが厳しく求められていました。
 坑道の中の気温は1年を通しておよそ18℃くらいで、夏は涼しく冬は暖かく感じました。坑内は削岩機の音がうるさく、機械を使うと手がしびれて振動病になる感じでした。坑内は暗く、私が就職したときには電気が通っていましたが、昔はガスを使ったトーチランプだったそうです。私自身が事故に巻き込まれることはありませんでしたが、ボーリングの仕事は坑内だけでなく屋外でも作業をすることがあり、重い機械を6人がかりで肩に担いで山道を登るのですが、どうしても一人に重量が掛かるときがあって、そのために腰を痛めたことがあります。」

   (ウ)鉱山の空気

 「労働者の日々の生活ですが、給料は1日幾らで計算して月に一度月給として支給されており、日曜日が休日となっていました。ボーナスも支給されていて、当時この辺りでボーナスを出す勤め先はほとんどありませんでしたから、そのことも大久喜鉱山で働くことの魅力になっていたと思います。鉱山では酒が飲める所や販売する所は置かれていませんでしたから、労働者は五十崎の町に下りていって酒を飲んでいたのです。『宵越しの銭は持たない』といった昔ながらの空気が残っていましたから、お金があるときは景気良く使っていたと思います。昔の鉱夫の気風は残っていましたが、会社の方では給料の一部を積み立てさせることもしていました。
 鉱山では定期的に球技大会が開かれており、本社が主催の全国にある事業所対抗の野球大会もありました。最も大きな行事は山神祭で、山の神様を祀(まつ)る神事が執り行われて、社宅の各家庭では料理が作られていましたからみんながそこでごちそうになって、次の家に行ってまたごちそうになるといった1日がありました。
 私(Eさん)が働いているころ、鉱山では200人くらいが働いていました。それ以前は300人前後が働いていたときもあったようです。閉山するころは150人くらいが働いていたと思います。」

  イ 大久喜鉱山の「町」

 「大久喜鉱山は、旧五十崎町の昭和地区に位置していましたが、そこだけで一つの町というか世界を作り上げていたと私(Eさん)は思います。山の中腹に事務所や各事業部が置かれ、福祉施設や住宅も建てられていました。社宅の家賃は安く、電気や水道といった光熱費も無料で恵まれた環境でした。敷地内には配給所と呼ばれた建物があり、そこで日用品を購入することができていました。さらに娯楽施設として『銀会館』と名付けられていた映画館や運動場がありました。私が就職したころには、鉱山職員の子どもは地元の五十崎小学校に通っていました。鉱山では労働者の奥さんたちで婦人会が組織されていて、坑道内の見学会や会社への要望を聞く集まりが開かれていました。奥さんたちに旦那さんの仕事場の様子や仕事内容を知ってもらうことで、家庭生活が円満に続くことを目指して会社が企画したものでした。
 事務所で勤める人は東京の本社とよく打合せをしていましたから、それもあって当時最先端の情報を共有して山の中の大久喜鉱山に届いていました。私たちから見れば、田舎の山の中にある鉱山が文化の先頭を行くような別世界だったように思えました。本社からやって来た職員から、都会の生活の匂いを感じられたように思います。一方で、本社から来た職員たちは現地の労働者と距離を置くようなことはせず、親しみを持って接していました。
 大久喜鉱山の敷地内にも娯楽施設はありましたが、当時の五十崎の中心地も飲食店や遊戯施設がそろっていました。旧内子町と旧五十崎町の中心地の規模は内子の方が大きいですが、五十崎の方では内子よりもパチンコ店が多く建てられていました。鉱山労働者を客として当て込んでいたためだと思いますし、それもあって町はにぎわっていました。」

(2) 閉山後の生活

  ア 大久喜鉱山の閉山

 「大久喜鉱山の閉山は突然決まったのではなく、3年くらい前からうわさに上っていました。それでも1年、2年と経過していったので景気が悪いながらも続くのかなと思っていたところに、閉山の知らせがきたことを私(Eさん)は憶えています。閉山となった背景ですが、採算が合わなくなったことが一番大きな理由として挙げられると思います。採掘を進めていけば、自然と坑道は長く深くなっていきますので、採掘と運搬のコストが掛かるようになります。さらに海外から安い銅鉱石が輸入されるようになると利潤を上げられないようになりました。閉山に当たって、会社が保有している他の鉱山への再就職のあっせんがあり、そちらへ移っていった人もいます。」

  イ グリーンツーリズム

 「閉山後は鍼灸(しんきゅう)師の仕事に従事していましたが、60歳を過ぎて人生の楽園を夢見て、私(Eさん)は平成16年(2004年)から25年(2013年)まで夫婦で民宿を兼業し、グリーンツーリズムを提供してきました。私は、かねがね自然豊かな山地で暮らしてみたいと思っていて、しかしあまりに不便な場所でも困ると考えていましたので、町にも近い現在の家は理想的な場所でした。さらに、山の中腹にある家から大久喜鉱山のあった神南山を見渡すことができます。当時は合併直前の時期で、旧内子町や旧五十崎町の方でも都市と農村の交流や町おこしを目的としてグリーンツーリズムを推奨しており、民宿経営のできる家庭を募っていました。
 国内外からの旅人を迎えてきましたが、生まれてからずっとこの地で生きてきた私から見れば、国内や世界各地を回ってきた人たちは『スケールの大きな人生を歩んでいる』と思えました。田舎の料理を提供し、妻が陶芸をしていた関係で陶芸体験を提供していましたが、基本的には何もしないで田舎の生活を満喫することにグリーンツーリズムの目的があります。ここは内陸部の山地ですから、海沿いの地域で暮らす小学生が宿泊したことがありますし、松山市の中学生も泊まったことがあります。文部科学省や航空会社も積極的にグリーンツーリズムを企画していた時期だったと思います。
 中には、『自分たちは、ただ自然豊かな土地の風景を満喫してのんびりとしたいのに、凧(たこ)を作ったり他の体験をしたりで、いろいろなことをやらされる。』と愚痴をこぼしている人もいました。大久喜鉱山に関わりのあった人が宿泊したこともあり、私が鉱山跡地まで案内したこともあります。鉱山で働いた人の子どもが昔を懐かしんで訪れていた事例もよくありました。」

  ウ 鉱山の記憶を伝える

 「大久喜鉱山は、閉山後は何度か跡地利用がなされて現在の静かな姿に戻っています。一方で、会社は閉山後も鉱山の管理を行っていました。
 今から20年くらい前、2000年代に入ってから、かつての従業員の中で大久喜鉱山の記憶を残していこうという活動が始まるようになりました。活動の中心となった人は私(Eさん)よりも年長の人たちばかりで、鉱山での勤務経験も長かった人たちです。地元の小学校から大久喜鉱山の歴史を話してほしいという依頼もあり、鉱山の経営をしていた会社に資料の有無を問い合わせてみたのですが、閉山から約40年経過していたこともありほとんど残っていませんでした。そこで仲間の中で写真を集めたり、当時の鉱山の様子を映像に残したりして資料を作っていきました。
 閉山後も、桜の季節になると昔を懐かしんで鉱山跡地に行っていましたが、現在の家に移ってからは毎日その姿を見ることができます。数年前に新しい内子町誌が編さんされ、大久喜鉱山についての文章もありましたので、先輩たちの活動も成果を残すことができたとうれしく思いました。」


参考文献
・ 五十崎町『五十崎町誌』1971
・ 内子町『内子町誌』1995
・ 五十崎町『改訂 五十崎町誌』1998
・ 大瀬自治会『大瀬・くらしのこみち』2012
・ 内子町『内子町誌 うちこ時草紙 Ⅱ民俗編』2018
・ 内子町『内子町誌 うちこ時草紙 Ⅲ歴史編』2019