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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業25-内子町-(令和5年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 人々のくらし

 (1) 内子の歴史と八日市でのくらし

  ア 内子の発展
 「江戸時代から明治時代にかけて、内子は藩の中で城下町以外に商売が許される在郷町として発展しました。在郷町という言葉のはっきりとした定義は私も把握していないのですが、そのように言われます。その在郷町内ノ子は『大洲旧記』などによれば、廿日市、六日市、八日市に分けられます。もともと室町時代には毎月20日に市が立てられていた廿日市が栄えていたようです。廿日市には一遍上人の開山という伝承のある願成寺という寺院があります。
 それで、この廿日市にあやかって六日市が立てられました。『大洲旧記』には高昌寺の下と書かれているので、現在の八日市の方まで入る広い範囲を指していたようです。ただ、上手の方はあまり繁盛しなかったようで、その後、一緒になったり、別れたり、中山の方に持っていったりと変遷があったそうですが、だんだんと六日市が繁盛するようになって、今の商店街につながっていきます。
 廿日市はその中で寂れていって、七日市もある程度は栄えていたのですが、六日市の方が盛んになってということになる中で、七日市は八日市と名前を替えます。『大洲旧記』を読むと、七日が菜っ葉とぬかに通じるので響きが良くないということが理由だそうです。
 八日市と城廻は清(せい)正(しょう)川で別れるのですが、清正川の向こう側が城廻村になって、高昌寺の辺りの地名を護国と言います。清正川という名前は戦国時代の武将の加藤清正への信仰があるようです。私(Bさん)は虎退治で有名な強い武将なので、皆があやかろうとしたのかな程度に思っていたのですが、内子の庄屋の家が寄付してくれた高橋文書という古文書を読んでいると、大洲藩加藤家の初代藩主の父加藤光泰が朝鮮出兵の折に、清正と交流があったそうです。それで、江戸時代の中期になっても清正の絵を描かせたりしていたという記述もあったので、内子の方にも清正信仰が残っているのかと思いました。川の水源となっている清正池に行く途中に小さい祠(ほこら)がありますが、昔からセンショコ様と呼ばれていました。これも清正公に由来するのは間違いないと思います。
 ただ、私の子どものころはこの川を『お富さん川』と呼んでいました。明治時代にお富さんという人が川のたもとで雑貨屋を営んでおり、それでこの川をお富さん川と呼んでいたそうです。私はこの町で育ってきましたが、町並み保存運動が行われるようになって初めて、お富さん川と呼ばれていた川は正式には清正川だったと知ったのです。」
  イ 製蝋業の隆盛
 「内子は江戸時代の終わりころから明治にかけては木蝋生産の町として繁栄しました。大洲藩で木蝋を生産し始めたのは五十崎だと言われています。五十崎に広島から職人がやって来て作り始めました。それで、内子も蝋作りで栄えていったようです。
 よく内子といえば蝋(ろう)燭(そく)の町と言われるのですが、大もうけしたのは蝋燭ではなくて原料の方で、八日市が大量生産の場でした。天日に晒して蝋を白くし、その白蝋を出荷してもうけていたのです。そのため、晒し場といって、蝋を晒すための広い場所が必要で、それがいろいろなところにあったようです。全盛期は明治時代ですが、大正10年(1921年)までに内子にあった業者が全て廃業しています。
 製蝋業の代表が本芳我家や上芳我家で、特に本芳我家は最も栄えていました。現在本芳我家の前の青屋町から商店街に抜ける道があるのですが、芳我新道と呼ばれています。本芳我家が寄付して作った道だからだそうで、八日市の本芳我の前から商店街までが全部本芳我家の晒し場だったと聞いており、土地を相当持っていということが分かります。
 私(Bさん)の家は上芳我家の娘が養子をもらって誕生したそうで、私で4代目になります。それで財産も上芳我家からもらったということは聞いており、初代は何もせずに財産で食べていけていたそうです。昔は人力車というものがあって、上芳我家で育った祖母は若いころに松山まで人力車で行って、帰ってきたことがあるそうです。引く人も引く人ですが、犬を連れて行って、険しいところは犬にも引っ張らせていたということを聞きました。歩くだけでも松山まで往復なんか考えられませんが、その当時はお金があったということかもしれません。
 現在上芳我家は町が借り上げて博物館になっていますが、私が子どものころには老夫婦が暮らしていました。それで間貸しをしていたことを覚えています。すぐ近くに内子中学校があるのですが、中学校の先生たちが何人か借りて住んでいました。一時期俳人の大山澄太が上芳我邸の古い母屋に住んでいたという話も聞いたこともあり、伯母がなじみになっていたらしく、『大山はんがな・・・』と親しそうに話に出していました。
 本芳我家も上芳我家も、最盛期のころの住宅は残っていますが、製蝋業を廃業した後に広大な晒し場を売ったり、財産分配だったりで手放していってそこが宅地と成り次々と建物が立っていったようです。内子中学校もそうで、もともと本芳我家の蔵があったり、晒し場だったりした土地でした。
 昭和10年代にはこの辺りでも和蝋燭の店が何軒かあったようです。そのもう少し昔になると蝋燭は高価なもので、菜種油を使う灯明が一般的ではあったみたいですが、やがて、生活の場に蝋燭が使われるようになっていたようです。町がこのように変遷していったということですが、私が子どものころはやはりどこかに勤めているという人が多く、店舗が立ち並んでいたという印象はありません。」
  ウ 昭和30年代、40年代の八日市のくらし
 「私(Bさん)が子どものころ、八日市の町並みには商店はあまりありませんでした。私が知っている限りでは、数軒ほどでした。そのころは道も舗装されていなくて、住民も結構入れ替わりがありましたが、住宅が多かったと思います。私が小さいころから今まで住み続けているのは何人かです。
 私が小さいときはまだ馬が通りを通っていたことを憶えています。さすがに車輪はタイヤでしたが、荷車を引いていました。肥をくんで運んだり、牛もよく通っていたことを憶えています。考えてみたらいろいろな人が住んでいました。
 道路が舗装されたのは昭和40年代のはじめだったと思います。そのころはアスファルトで、表面がつるっとしたものでした。ただそれは水が土に染み込まないので、伝建地区になってから透水性のものに変えました。最初は良くなったと思ったのですが、透水性のものは限界があり、目詰まりしたり砂利が剝離したりで、結局やり替えました。
 私が小さいころは、通りに地元の人がもっと歩いており、気軽に言葉を交わしていたことを憶えています。私は知らない時代ですが、父のころには扇風機もなかったので、夏になると夜に床几(ぎ)を家の前に出して、大勢が涼みに出ていたそうです。そうすると、顔役というか漫才師みたいな住民の人があちこちに行って面白い話で場を沸かしたりして、地域の人気者になっていたという話を聞きました。」

 (2) 子どものころのくらし

  ア 子どものころの買い物
 「私(Bさん)が子どものころ、母が買い物袋を持って商店街まで買いに行っていました。八日市でもちょっとしたものは買うことができるのですが、食材を仕入れようとすると商店街まで行かなければなりませんでした。そのころ、主婦の店というのが新しくできました。今でいうスーパーマーケットです。商店街には何軒かあって、そこに行けば大抵の物がそろうので、あちこち回らなくても良くなり、便利になりました。ただ、主婦の店では魚や肉は置いてなかったので、専門店に買いに行っていました。
 それからそのころには氷屋があったことを憶えています。昔は氷の塊を切ってもらって、買っていました。冷蔵庫が普及していない時代で、コップの飲み物を冷やすといった使い方はしていませんでしたが、熱を出して冷やさなければならないときに買いに行っていました。」
  イ 子どものころの遊び
 「子どものころは八日市に子どもが多かったです。遊ぶのは友達の家が多かったですが、そのころはどの家も鍵も掛けていなかったので、我が家のごとく行き来していたことを私(Bさん)は憶えています。
 外ではお富さん川でよく遊びました。エビンチョと言っていた小さいエビを取ったり、ドジョウやドンコなどの魚をとったりして遊んでいました。フナをとった憶えはありませんが、ナマズやカニはたまにとったことを憶えています。よく遊びましたが、狭い所を渡ろうとして足を滑らせて川に落ちたり、思い出が多いです。清正池でもよく遊びました。」


参考文献
・ 愛媛県『愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)』1985
・ 角川書店『角川日本地名大辞典38愛媛県』1991
・ 内子町『内子町村の移り変わり写真集』2004
・ 森まゆみ『反骨の公務員、町をみがく -内子町・Aの町並み、村並み保存』2014
・ 内子町『内子町誌 うちこ時草紙 Ⅰ文化編』2015
・ 内子町『内子町誌 うちこ時草紙 Ⅱ民俗編』2018
・ 内子町『内子町誌 うちこ時草紙 Ⅲ歴史編』2019